音楽の授業で「音楽の父はバッハ、音楽の母はヘンデル」と習った記憶がある方は多いはずです。ところが大人になってから調べ直すと、いくつも引っかかる点が出てきます。ヘンデルは男性なのになぜ「母」なのか。バッハとヘンデルはどういう関係だったのか。そもそもこの呼び名は誰が決めたのか。
結論から言うと、「音楽の母」という称号には学術的な根拠がありません。バッハを「音楽の父」と呼ぶことに対して、対になる存在を置くためだけに後から付けられた造語です。しかも、この呼び方をしているのは日本だけです。海外の音楽史の教科書に「Mother of Music」としてヘンデルが登場することはありません。
ただし、それはヘンデルの価値が低いという意味ではまったくありません。むしろ逆です。バッハと同じ1685年に生まれ、生涯一度も顔を合わせることのなかったこの2人は、音楽の作り方も、キャリアの築き方も、聴かせる相手も、驚くほど対照的でした。その違いを知ると、バロック音楽という時代がなぜ2つの方向に枝分かれしたのかが見えてきます。この記事では、称号の由来から2人の具体的な違い、ヘンデルの代表作の成り立ちまでを、出典を確認しながら順に整理します。
・「音楽の母」がヘンデルを指す理由と、この呼び名が日本だけで使われている事情
・バッハとヘンデルを分けた3つの決定的な違い(活動地・音楽様式・聴衆の位置)
・《メサイア》《水上の音楽》《王宮の花火の音楽》がどんな事情で生まれた曲なのか
・「音楽の父」という枠組みそのものが持っている、音楽史の見方の偏り
「音楽の母」と呼ばれているのはヘンデルという作曲家です

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルという人物の輪郭
「音楽の母」が指しているのは、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルという作曲家です。1685年2月23日(グレゴリオ暦3月5日)にドイツのハレで生まれ、1759年4月14日に亡くなりました。バッハとまったく同じ1685年生まれで、この一致が後の「父と母」というペア扱いの土台になっています。
ヘンデルを一言で説明するなら、後期バロック音楽を代表する作曲家であり、イタリア語のオペラ・セリアと英語のオラトリオという2つのジャンルで名を残した人物です。ヤマハの音楽史解説でも「後期バロック音楽の著名な作曲家の一人で、特にイタリア語のオペラ・セリアと英語のオラトリオの作曲で知られ、自ら公演事業にも携わった」と紹介されています。この「自ら公演事業にも携わった」という一文が、実はヘンデルという人を理解する鍵になります。彼は作曲家であると同時に、興行主でもあったのです。
作品数はオペラが46曲、オラトリオが32曲。これに管弦楽曲、協奏曲、室内楽が加わります。オペラとオラトリオだけで78曲というのは、劇場のために書き続けた作曲家でなければ到達しない数字です。ここでつまずきやすいのが「バロック=教会音楽」という思い込みで、ヘンデルの中心は劇場でした。彼の代表作を探すときは、まず舞台作品から見ていくと全体像がつかみやすくなります。
ドイツ生まれなのに、イギリスで活躍した作曲家
ヘンデルの経歴でまず驚くのは、その移動距離です。ドイツのハレで生まれた後、1706年から1710年までの3年間をイタリアで過ごしています。フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマを渡り歩き、この期間にオペラ《アグリッピーナ》を書きました。当時のイタリアはオペラの本場であり、若い作曲家が本格的な劇音楽を学ぶには現地に行くしかありませんでした。
そして1711年、ロンドンに進出します。オペラ《リナルド》が初演されて大成功を収め、1711年のシーズンだけで15回、生前を通じて合計53回上演されました。当時のオペラ興行で1シーズン15回というのは相当な数字です。翌1712年11月に再びロンドンへ渡り、当初は一時的な滞在の予定でしたが、そのまま定住することになりました。
定住を決定づけたのが1714年の出来事です。ヘンデルが仕えていたハノーファー選帝侯が、イギリス王ジョージ1世として即位したのです。仕えるべき主君が海を渡って自分のいる国の王になった。この偶然が、ドイツ生まれのヘンデルをイギリスの作曲家にしました。国籍で言えばドイツ、活動実態で言えばイギリス。「音楽の母」という称号がドイツ生まれという一点で選ばれた一方で、彼の人生の大部分がイギリスにあったという事実は、後で見る称号の問題につながります。
| 生没年 | 1685年2月23日(グレゴリオ暦3月5日)~1759年4月14日 |
| 生地・国籍 | ドイツ・ハレ/ハノーファー選帝侯に仕えた後、イギリスに定住 |
| 音楽様式 | バロック音楽(後期バロック)/ホモフォニックな色彩が強い |
| 専門分野・作品数 | オペラ46曲、オラトリオ32曲、ほか管弦楽曲・協奏曲・室内楽 |
音楽の輪郭は「大胆でスケールが大きい」
ヘンデルの音楽の特徴を出典に沿って言えば、「いきいきとした張りのある気分にあふれ、大胆で、スケールの大きさが感じられ、やや[ホモフォニック]な色彩が強い」となります。ヤマハの音楽史解説にある表現です。ここで大事なのはホモフォニックという言葉で、これがバッハとの違いを説明する軸になります。
ホモフォニーとは、主旋律が1本あって、それ以外の声部が和音で支える書き方です。聴き手は迷わず旋律を追えます。対してポリフォニーは、複数の独立した旋律が同時に進行する書き方で、どの線も主役です。ヘンデルの音楽が初めて聴いても頭に残りやすいのは、この主旋律優位の書き方によるところが大きいのです。
ここで注意したいのは、ホモフォニックだから単純、ポリフォニックだから高度、という優劣の話ではないという点です。ヘンデルのオラトリオには壮大な合唱フーガが何曲も含まれています。あくまで「色彩が強い」という傾向の話であって、書き分けができないわけではありません。曲を聴きながら「今は旋律1本を追っているのか、複数の線が絡んでいるのか」を意識すると、この違いが体感として掴めるようになります。
ホモフォニー=主旋律が1本あり、他の声部が和音でそれを支える書き方。ポップスの「メロディ+伴奏」と同じ構造で、聴き手は旋律を迷わず追える。
ポリフォニー=複数の旋律が独立して同時に進む書き方。輪唱やフーガが代表例で、どの声部も主役になる。楽譜上ではどの段も休みなく動き続けるのが目印。
この称号、実は学術的な根拠がまったくありません
「バッハと対にするため」に付けられただけの呼び名
ここが本題です。「音楽の母」という称号には、深い学術的根拠がありません。音楽評論の記事では「単純にバッハと対にするためにつけられたもので、深い意味などないのだろう」と分析されています。つまり、ヘンデルの音楽に母性的な何かがあるからそう呼ばれたのではなく、「父」がいるなら「母」も要る、という発想の産物なのです。
なぜこうなったのかを考えると、教育の現場の事情が見えてきます。音楽史を子どもに教えるとき、バロックという時代を代表する名前を2つ並べると覚えやすい。片方を「父」と呼んだなら、もう片方は「母」にすると対比が効いて印象に残る。教える側にとっては便利な整理ですが、その便利さが事実と入れ替わってしまったのが今の状況です。
ここでよくある誤解が、「ヘンデルの音楽は柔らかいから母と呼ばれた」「バッハが理論、ヘンデルが感情だから」といった後付けの説明です。こうした説明は、称号が先にあって理由を後から探した結果であることが多く、一次的な根拠を辿っても出てきません。音楽史の用語は、こうして後から意味が足されていくことがあるので、「なぜそう呼ばれるのか」を調べるときは、呼び名の成立時期と発案者を確認するのが確実です。
「音楽の母と呼ばれる理由」を検索して、ヘンデルの音楽性から説明する記事に行き当たることがあります。ただしそれらの多くは称号が先にあって理由を後付けしたもので、一次的な根拠に辿り着きません。称号の由来を調べるときは「誰がいつ言い始めたか」を確認すると、後付け説明との区別がつきます。
日本だけの呼び方だという事実
もうひとつ押さえておきたいのが、この称号が日本ローカルのものだという点です。「音楽の母」という称号は日本だけの呼び方だと指摘されています。海外の音楽史文献でヘンデルを「Mother of Music」と紹介する用例は一般的ではありません。
この事実が意味するのは、日本人がヘンデルについて共有している最初のイメージが、世界の音楽史の共通認識とはズレているということです。海外の演奏家や研究者と話すときに「彼は音楽の母ですよね」と言っても通じません。相手からすれば、ヘンデルはオペラとオラトリオの巨匠であり、イギリス音楽史の中心人物です。母という比喩は出てきません。
ではなぜ日本でだけ定着したのか。断定できる資料はありませんが、明治以降に西洋音楽を学校教育に取り入れる過程で、覚えやすい対比として広まったと考えるのが自然です。教科書的な整理が世代を超えて再生産されると、その枠組み自体が事実のように扱われます。「音楽の父」「楽聖」「歌曲の王」といった呼び名も同じ構造を持っているので、こうした称号を見たときは、まず出所を疑ってみるのが健全です。
そもそもヘンデルは男性です
言われてみれば当たり前ですが、ヘンデルは男性です。「母」という表現自体が不適切だという指摘もあります。授業で習ったときに違和感を覚えた方は、その感覚が正しかったということになります。
この違和感は、単なる言葉遣いの問題にとどまりません。「父」と「母」という比喩を使った瞬間に、2人の関係に家族的な役割分担のイメージが被さります。バッハが土台を作り、ヘンデルがそれを育てた、あるいはバッハが構造でヘンデルが情緒、といった図式です。しかし実際には、2人は同い年で、面識がなく、互いに影響を与え合った関係でもありませんでした。家族の比喩は、この事実関係を正しく伝えません。
それでも「音楽の母」という言葉が完全に無意味かというと、そうとも言えません。この呼び名があったおかげでヘンデルの名前を知った人は多いはずです。入口としての機能は果たしてきました。大切なのは、そこで止まらずに実際の作品と経歴に進むことです。この記事の以降のセクションは、まさにその先を扱います。

バッハとヘンデルを分けた3つの決定的な違い

違い1:留まったバッハ、渡り歩いたヘンデル
2人を分ける最大の違いは、活動した場所の広さです。ヤマハの音楽史解説には「バッハは生地近くにとどまり宮廷・教会音楽家として活動したのに対し、ヘンデルはドイツ、イタリア、イギリスを活躍の舞台としました」とあります。バッハはドイツ中部から出ませんでした。ヘンデルは3カ国を股にかけました。
この違いは、そのまま作品の性格に出ます。バッハは特定の宮廷や教会に雇われ、その場所の礼拝や行事のために書き続けました。求められる編成も、演奏する人も、聴く人もほぼ固定されています。一方ヘンデルは、行った先の音楽市場に合わせて書き方を変える必要がありました。イタリアではイタリア語のオペラ、イギリスでは英語のオラトリオ。言語も、ジャンルも、聴衆の好みも切り替えています。
ここでつまずきやすいのが、「移動したヘンデルのほうが自由で恵まれていた」という読み方です。実際には逆で、雇用が保証されていない分、当たらなければ収入が途絶える立場でした。ヘンデルが興行主も兼ねていたのは、そうせざるを得なかったからです。2人のキャリアを比べるときは、「安定と引き換えの制約」対「自由と引き換えのリスク」という構図で見ると理解しやすくなります。
違い2:ポリフォニーのバッハ、ホモフォニーのヘンデル
音楽の書き方も対照的です。出典によれば、バッハは「中世ないしはバロック的な古い音楽家の生き方」で活動しポリフォニック様式に基づいていたのに対し、ヘンデルは「より大衆に密着した歌劇運動に身を投じ」ホモフォニック傾向が強かった、とされています。
この違いは聴けばすぐわかります。バッハのフーガでは、最初に出た主題が別の声部で次々に登場し、複数の線が絡み合いながら進みます。楽譜を見ると、どの段も休みなく動いています。ヘンデルのアリアでは、歌の旋律が明確に主役で、弦楽器はその下で和音を支えています。楽譜を見れば主旋律の段が一目で判別できます。
実際の練習で差が出るのはここです。バッハの《インヴェンション》で右手と左手が別の旋律を弾く場面に苦戦した経験がある方は多いはずですが、これはポリフォニーの構造そのものが難所だからです。両手が別々の思考を要求してきます。対してヘンデル由来の編曲曲では、右手の旋律を歌わせながら左手で和音を刻む形が多く、つまずく箇所が変わってきます。作曲家によって練習の難所が違うのは、様式が違うからです。
| 項目 | J.S.バッハ(音楽の父) | ヘンデル(音楽の母) |
|---|---|---|
| 生没年 | 1685年生まれ/1750年没 | 1685年生まれ/1759年没 |
| 活動地域 | ドイツ中部に留まる | ドイツ・イタリア・イギリス |
| キャリア | 宮廷・教会音楽家として雇用される | 各国を渡り歩き、公演事業も自ら手がける |
| 音楽様式 | ポリフォニック様式が基盤 | ホモフォニック傾向が強い |
| 中心ジャンル | 宗教音楽・教育的作品 | オペラ46曲・オラトリオ32曲が中心 |
| 想定した聴き手 | 神への奉仕・子供や弟子の教育 | 常に聴衆を意識した音楽 |
違い3:神と弟子に向けたバッハ、聴衆に向けたヘンデル
3つ目の違いが、実は最も本質的かもしれません。誰に向けて書いたかという問題です。出典にはこうあります。「バッハの音楽は大衆に向かって書かれた音楽ではなく、神への奉仕であったり、子供や弟子の教育目的であったりしたのに対して、ヘンデルは常に聴衆を意識した音楽を書いています」。
バッハの鍵盤作品の多くは、演奏会のために書かれたものではありません。教会の礼拝で使うため、あるいは息子や弟子に技術と音楽を教えるために書かれました。《インヴェンションとシンフォニア》の序文にバッハ自身が教育目的を記しているのは有名です。聴衆が拍手するかどうかは、そもそも設計の前提に入っていません。
ヘンデルは違います。チケットが売れなければ次の公演が打てない立場でした。だから曲は掴みが早く、旋律は覚えやすく、盛り上がりの設計がはっきりしています。《リナルド》が1シーズンで15回上演されたのは、聴衆が繰り返し足を運んだからです。この「聴衆が対価を払って聴く音楽」という発想は、後の演奏会文化につながっていきます。ヘンデルを聴くときは、初演の会場に座っている客の視点を想像すると、曲の構成意図が見えてきます。
同い年で、生涯一度も会わなかった2人
バッハは2度、会いに行こうとしていた
ここは音楽史の中でも屈指の「もしも」が語られる場面です。バッハとヘンデルは同じ1685年に生まれ、同じドイツ語圏に育ちながら、生涯一度も顔を合わせませんでした。しかも、会おうとしなかったわけではありません。バッハが2度、ヘンデルへの面会を試みています。
1度目は1719年、ヘンデルが故郷ハレに滞在していたときです。バッハはそこへ向かいましたが、タイミングがずれて会えませんでした。2度目はその後、バッハがライプツィヒにヘンデルを招こうとしたときで、こちらは都合がつかず実現していません。2度とも、あと少しのところで擦れ違っています。
興味深いのは、動いたのがバッハの側だという点です。当時の名声で言えば、国際的に活躍しオペラで成功していたヘンデルのほうが圧倒的に有名でした。バッハは地方の教会・宮廷音楽家として知られる存在です。バッハがヘンデルに関心を持ち、ヘンデルからの記録が残っていないという非対称は、2人の当時の立場の違いをそのまま映しています。今日の評価から遡って歴史を見ると誤読するのは、こういう場面です。
「同い年」の一致が、後の対比を生んだ
2人が同じ1685年生まれだという事実は、音楽史の整理の上で強力に働きました。生年が一致していると、比較の土台が自動的に揃うからです。同じ時代の空気を吸い、同じ音楽的前提から出発して、まったく違う方向に進んだ2人。教科書がこの構図を使いたくなるのは無理もありません。
没年は分かれます。バッハが1750年、ヘンデルが1759年です。音楽史ではバッハが亡くなった1750年をバロック時代の終わりの区切りとする扱いが一般的で、ヘンデルはその後も9年間生きたことになります。区切りの年が誰かの没年で決まるというのも、後世の整理の都合です。
ここで押さえておきたいのは、時代区分も称号も、後から人間が引いた線だという点です。1750年に音楽が突然変わったわけではありませんし、1685年生まれの2人が生前に「父と母」と呼ばれていたわけでもありません。音楽史を学ぶときは、「これは当時の事実か、後世の整理か」を分けて読むと、話がずっとクリアになります。
意外と知られていない、2人の評価が逆転していた時期
実は、生前の知名度と現在の評価は一致していません。ヘンデルは生前から国際的なスターで、ロンドンの劇場を満員にしていました。バッハは職業音楽家としては尊敬されていましたが、その作品が広く演奏される存在ではありませんでした。今日「音楽の父」と呼ばれるバッハが、当時は地方の一音楽家だったのです。
この逆転が示しているのは、音楽の価値評価が時代とともに変わるという単純な事実です。同時に、「音楽の父」という称号がバッハの生前の地位を表しているのではなく、後世の再評価の結果に付けられた名前だということも意味します。父も母も、19世紀以降の視点から遡って貼られたラベルなのです。
そう考えると、称号を疑うことは作曲家の価値を下げることではありません。むしろ、ラベルを外して作品そのものに向き合う入口になります。次のセクションからは、ヘンデルの代表作を実際に見ていきます。称号を通してではなく、曲の成り立ちから彼を理解するためです。

24日間で書き上げた《メサイア》という異常な集中
1741年8月22日から9月14日まで、わずか24日間
ヘンデルの代表作を1曲だけ挙げるなら、オラトリオ《メサイア》です。そしてこの曲を語るとき必ず出てくるのが、作曲期間の短さです。1741年8月22日から9月14日までの、わずか24日間で書き上げています。
この数字がどれだけ異常かは、作品の規模を考えるとわかります。《メサイア》は3部構成で、第2部だけで23曲あります。合唱、独唱アリア、レチタティーヴォ、管弦楽が組み合わさった大作を、1カ月足らずで完成させたことになります。しかも清書まで含めての期間です。
ただし、ここで誤解しやすいのが「24日間だからインスピレーションだけで書けた」という読み方です。実際には、ヘンデルはこの時点でオペラを数十曲書いてきた職業作曲家でした。声楽の書き方も、合唱の効果も、劇的な構成も体に入っています。加えてバロック期には自作や他人の作品から素材を借用する慣行があり、ヘンデルもそれを活用しました。速さの正体は天才的な閃きというより、蓄積された技術と方法論です。練習でも同じで、速く仕上がるようになるのは引き出しが増えてからです。
《メサイア》の作曲は1741年8月22日から9月14日までの24日間。初演は翌1742年4月13日、場所はロンドンではなくダブリンでした。ロンドン初演はさらに翌年の1743年3月23日です。「ヘンデル=ロンドン」のイメージが強いので、代表作の初演地がダブリンだという点は覚えておくと混乱しません。
初演はロンドンではなくダブリンだった
《メサイア》の初演は1742年4月13日、ダブリンで行われました。ロンドンではありません。そしてダブリンの聴衆は熱狂をもって迎えたと記録されています。ロンドン初演はその翌年、1743年3月23日です。
ヘンデルの活動拠点がロンドンだったことを考えると、なぜ代表作の初演がアイルランドだったのかは気になるところです。背景として、当時のロンドンではイタリア語オペラの人気に陰りが出ており、ヘンデルは英語のオラトリオという新しい形に軸足を移しつつありました。新機軸を試す場としてダブリンが選ばれたと理解すると、この選択に筋が通ります。
《メサイア》の3部構成は、第1部がメシアの預言と懐胎、第2部がメシアの受難と復活および教えの伝播、第3部が死者の復活と最後の審判です。宗教的な題材でありながら、上演されたのは教会ではなく演奏会場でした。ここがオペラとオラトリオの関係を理解する鍵になります。宗教的内容を、劇場の枠組みで聴かせる。ヘンデルはオペラで培った技術を、そのまま宗教曲に持ち込んだのです。
《ハレルヤ》で立ち上がる慣例は、こうして生まれた
《メサイア》で最も有名なのが、第2部最終曲の《ハレルヤ》です。出典には「第2部最終曲であり、合唱の効果も秀逸で、特に有名である」とあります。この曲には、演奏会で聴衆が起立するという独特の慣例が伴います。
由来として伝えられているのが、国王ジョージ2世が《ハレルヤ》の途中で起立し、それに倣って観客も起立した、というエピソードです。ここから、《ハレルヤ》では立って聴くという慣例が生まれたとされています。ただしこの逸話については、当時の記録の裏付けをめぐって議論があり、断定的に語られるべき話ではありません。初めて演奏会に行く方は、周囲の動きに合わせれば問題ありません。
《メサイア》にはもう1曲、押さえておきたい曲があります。第23曲《He was despised》で、約10分という長さは《メサイア》の中で最長です。《ハレルヤ》の華やかさとは対照的に、深く沈み込むアリアです。この2曲を続けて聴くと、ヘンデルが振れ幅の大きい作曲家だということが体感できます。有名な1曲だけで作曲家を判断すると、こういう側面を見落とします。
《メサイア》を「クリスマスの曲」と覚えている方がいますが、初演は1742年4月13日で、第2部・第3部は受難と復活、最後の審判を扱います。年末年始に演奏される機会が多いことから生まれたイメージで、作品の内容とはズレがあります。曲の性格を知りたいときは、演奏される季節ではなく、歌詞の題材と構成を見るのが確実です。
テムズ川で4時間演奏し続けた《水上の音楽》
1717年7月17日、川の上で行われた初演
《水上の音楽》は1717年前後に作曲され、1717年7月17日にロンドンのテムズ川で初演されました。演奏会場ではなく、川の上です。ジョージ1世の舟遊び、いわゆるテムズ川巡航のための音楽として書かれました。
初演の様子が印象的です。ジョージ1世が船で巡航している間、ヘンデルは約50名の楽師を率いて別のはしけの上で4時間以上にわたって連続演奏を行いました。屋外、しかも水の上で、50人編成が4時間。屋根も壁もない場所で音を届けるという条件が、この曲の書き方を決めています。
ここに、屋外音楽の設計思想が現れています。反響のない場所では、細かい対位法の絡みは届きません。届くのは、はっきりした旋律線と、明快なリズム、そして音量の出る楽器です。《水上の音楽》にホルンやトランペットが活躍する楽章が多いのは、装飾ではなく必然でした。曲を聴くときに「どこで鳴らすために書かれたか」を意識すると、編成の理由が見えてきます。
ジョージ1世との和解説は、伝説として扱うのが正確です
《水上の音楽》には有名な逸話があります。ヘンデルはハノーファー選帝侯の宮廷楽長でありながら帰国命令に従わずロンドンに定住していた。そのハノーファー選帝侯がジョージ1世としてイギリス王になってしまい、気まずくなったヘンデルがこの曲で和解を図った、というものです。
ただし、この話は伝説であり、真偽は定かではありません。魅力的な物語ではありますが、事実として断定できる根拠はないというのが正確な扱いです。音楽史の逸話には、こうした「よくできた話」が数多く残っています。
逸話の真偽を確かめる習慣は、クラシックを深く楽しむ上で役に立ちます。「この話の出典はどこか」「同時代の記録があるか」を確認するだけで、事実と物語を分けられます。逆に言えば、真偽が定かでない逸話でも、それが長く語り継がれてきたこと自体は文化的な事実です。切り捨てる必要はなく、「そう語られてきた話」として楽しめばよいのです。
フランス風序曲という様式で書かれている
《水上の音楽》は組曲形式で、フランス風序曲の様式を用いた華やかで優雅な作品です。フランス風序曲とは、付点リズムを持つ荘重な緩やかな部分から始まり、その後に速いフーガ的な部分が続く形式で、17世紀のフランス宮廷で確立されました。
ドイツ生まれ、イタリアで修行、イギリスで活動したヘンデルが、フランス由来の様式を使っている。この事実は、バロック後期の音楽が国境を越えて混ざり合っていたことを示しています。各国の様式を状況に応じて使い分けられることが、当時の一流作曲家の条件でした。ヘンデルの国際的なキャリアは、この技術の上に成り立っています。
聴くときのポイントは、冒頭の付点リズムです。「タッカ、タッカ」という跳ねるリズムが荘重に鳴ったら、それがフランス風序曲の合図です。この様式はバッハの管弦楽組曲にも、後のモーツァルトにも登場します。ひとつ様式を覚えると、他の作曲家の曲でも同じ構造が見えてくるようになります。
フランス風序曲=付点リズムによる荘重で緩やかな部分から始まり、続いて速いフーガ的な部分が現れる序曲の形式。17世紀フランスの宮廷音楽で確立され、バロック後期には国境を越えて広く使われた。
組曲=性格の異なる複数の楽章を並べてひとつの作品としたもの。舞曲を連ねた形が基本で、《水上の音楽》もこの形をとる。
1万2000人が押し寄せた《王宮の花火の音楽》の顛末
戦争の終結を祝うための、国家的な祝典音楽
《王宮の花火の音楽》はHWV 351、1748年に作曲されました。目的がはっきりしている曲で、オーストリア継承戦争の終結を告げるアーヘンの和議を祝う祝典のために書かれています。個人の依頼ではなく、国家行事の音楽です。
編成を見ると、その性格がわかります。オーボエ24、ファゴット12、コントラファゴット1、ホルン9、トランペット9、ティンパニ3対。管楽器と打楽器だけでこの人数です。屋外で、花火とともに鳴らすための軍楽隊編成であり、コンサートホール用の管弦楽とはまったく発想が違います。
音楽的には、華やかかつ軽やかな小品で構成されており、王室の権威を思わせる堂々とした音楽で始まり、その後軽快な音楽へ続きます。この「重い出だしから軽快へ」という流れは、《水上の音楽》のフランス風序曲と同じ設計思想です。屋外で最初に注意を引き、その後は聴きやすく展開する。屋外音楽の定石をヘンデルは持っていました。
公開リハーサルに1万2000人、ロンドン橋は交通渋滞
この曲で最も語り草になっているのが、本番前の公開リハーサルです。1749年4月21日にロンドンのヴォクソール・ガーデンズで公開リハーサルが行われ、未曾有の1万2000人の観客を集め、ロンドン橋で交通渋滞を引き起こしました。本番は1週間後の4月28日、ロンドンのグリーン・パークで催されています。
18世紀のロンドンでリハーサルに1万2000人というのは、ヘンデルの人気がどれほどのものだったかを示す具体的な数字です。しかもこれは本番ではなく、練習の公開です。現代で言えば、公演のゲネプロに1万人以上が押し寄せて周辺道路が麻痺した状態にあたります。
この事実は、前のセクションで見た「聴衆を意識した音楽」という性格を裏づけます。ヘンデルは同時代の人々にとって、聴きに行く価値のある現役の作曲家でした。バッハの作品が19世紀の再評価を経て広まったのとは対照的です。同時代性という観点でヘンデルを見ると、彼の位置づけがより立体的になります。
本番は花火が失敗し、パビリオンが焼け落ちた
ここが《王宮の花火の音楽》の顛末です。1万2000人を集めた前評判とは裏腹に、本番では花火がうまく点火せず、さらにパビリオンのひとつが焼け落ちるという失敗に終わりました。
国家的祝典で、音楽のために100人近い管楽器奏者を集め、王室の威信をかけた催しが、花火の不発と火災で締めくくられた。音楽史の中でも屈指のちぐはぐな結末です。そして皮肉なことに、その日の花火は誰の記憶にも残らず、音楽だけが270年以上演奏され続けています。
この一件から読み取れるのは、音楽が本来「何かに付随するもの」だったバロック期の在り方と、それでも音楽だけが独立して生き残るという現象です。舟遊びのBGMだった《水上の音楽》も、花火の伴奏だった《王宮の花火の音楽》も、目的だった行事は終わり、音楽だけが残りました。演奏会で聴くときに、この曲が本来どんな場面のために書かれたかを思い出すと、聴こえ方が変わります。

ピアノを弾く人がヘンデルに出会う場所
《オンブラ・マイ・フ》はヘ長調の静かなアリアです
ピアノを弾く人がヘンデルに出会う最初の曲は、多くの場合《オンブラ・マイ・フ》です。オペラ《セルセ》の第1幕冒頭に置かれたアリアで、ヘ長調で作曲されています。ペルシャ王セルセ(クセルクセス1世)がプラタナスの木に向かって歌うアリアです。
歌詞の内容は「かつて、これほどまでに愛しく、優しく、心地の良い木々の陰はなかった」というもので、プラタナスの木陰への愛を歌ったものです。王が木に向かって歌う、という設定がすでに独特です。タイトルロールのセルセが愛する木の枝葉に運命の光が降り注ぎ、嵐や南風から守られることを願っている内容になっています。
ピアノで弾く際に難しいのは、テンポが遅い曲ほど音の減衰が問題になる点です。声楽なら息で音を保てますが、ピアノの音は打鍵の瞬間から減衰していきます。長い音符を歌わせるには、次の音との音量バランスを設計し、ペダルで響きをつなぐ必要があります。ゆっくりした曲は簡単だと思って選ぶとここでつまずきます。速い曲とは別種の難しさがあると理解して取り組んでください。
この旋律には、実は元ネタがあります
《オンブラ・マイ・フ》について知っておくと面白いのが、旋律の由来です。この旋律は、ボノンチーニが1694年に作曲した同名のオペラ《セルセ》の同名アリアから借用し、発展させたものです。ヘンデルの完全なオリジナルではありません。
現代の感覚では盗作に見えるかもしれませんが、バロック期の音楽では他人の作品や自作から素材を借用することは珍しくありませんでした。同じ題材のオペラが複数の作曲家によって書かれ、先行作の素材が引き継がれていくのも普通のことでした。評価されたのは「新しい素材を発明したか」ではなく「与えられた素材をどう仕上げたか」です。
この事実は、《メサイア》を24日間で書けた理由ともつながります。ゼロから発明するのではなく、既存の素材を組み替え、磨き上げる技術。それがバロックの作曲法でした。ピアノの練習でも、まったく新しい動きを毎回覚えるのではなく、スケールやアルペジオという既存のパターンの組み合わせとして曲を捉えると、譜読みの速度が変わってきます。作曲家の方法論は、学習者にも応用が効きます。

鍵盤楽器のための協奏曲を最初に書いたのもヘンデルです
鍵盤楽器を弾く人にとって見逃せないのが、《オルガン協奏曲集作品4》です。Op. 4(HWV 289-294)として6曲がまとめられ、1735年から1736年ごろに作曲・初演され、1738年に出版されました。この曲集は、鍵盤楽器用の協奏曲としては最初の作品にあたります。
成立の事情が独特です。もともとは演劇作品の幕間に演奏される劇場用音楽として書かれました。楽譜には「Organo ad libitum」と記された箇所があり、ヘンデル自身が即興で弾くことを前提に、細部を書き込まずに残してあります。管弦楽伴奏での演奏も、独奏鍵盤楽器のみでの演奏も可能な、柔軟な構成です。
構成を見ると、6曲中4曲(第1番、第2番、第3番、第5番)が遅速遅速の4楽章形式。第4番は速遅遅速で順序が逆転し、第6番だけが速遅速の3楽章です。楽章構成が曲ごとに揺れているのは、劇場の幕間という上演条件に合わせて長さや性格を調整していたからだと考えられます。「協奏曲=3楽章」という後の常識が、まだ固まる前の姿がここにあります。ピアノ協奏曲の歴史を辿ると、その出発点にヘンデルがいるのです。
| 作品 | 形式 | 成立・初演 |
|---|---|---|
| 水上の音楽 | 管弦楽組曲 | 1717年前後作曲/1717年7月17日 テムズ川で初演 |
| オルガン協奏曲集作品4 | 鍵盤楽器用協奏曲(6曲) | 1735-1736年作曲・初演/1738年出版 |
| メサイア | オラトリオ(3部構成) | 1741年8月22日-9月14日作曲/1742年4月13日 ダブリン初演 |
| 王宮の花火の音楽 | 管弦楽(軍楽隊編成) | 1748年作曲/1749年4月28日 グリーン・パークで本番 |
「音楽の父」という枠組みが隠してきたもの
父と母の間に、実は多くの作曲家がいます
ここまで「音楽の母」という称号の由来を見てきましたが、問題は称号そのものよりも、この枠組みが何を見えなくしているかにあります。バッハを「音楽の父」として位置づけることで、それ以前のイタリア・フランスのバロック音楽の優れた作曲家たちが無視される、という指摘があります。
バッハが1685年生まれだということは、それ以前にバロック音楽の時代が既に100年近く進行していたということです。イタリアではオペラが生まれ、協奏曲の形式が整えられていました。フランスでは宮廷音楽の様式が確立し、その様式がヘンデルの《水上の音楽》にまで届いています。「父」が生まれる前に、既に音楽は豊かに存在していたのです。
それでも「音楽の父」という言い方が流通し続けるのは、この呼び名がドイツ絶対主義的な歴史観を反映しているからだと指摘されています。ドイツの作曲家を音楽史の起点に置く見方です。この分類は恣意的で偏った音楽史観であるという評価もあります。用語を疑うことは、その用語が前提にしている見方を疑うことでもあります。
「音楽の父=バッハが音楽を作った人」と理解してしまうと、バロック音楽の全体像を大きく取り違えます。バッハが生まれた1685年時点で、バロック音楽は既に100年近い蓄積を持っていました。称号は「起点」ではなく「後世が選んだ代表」だと捉えると、その前後にいる作曲家たちにも視野が広がります。
称号を外して聴くと、何が見えてくるか
では称号を外して、ヘンデルという作曲家をどう位置づければよいのでしょうか。素直な言い方をするなら、「J.S.バッハと並ぶ後期バロック音楽の巨匠であり、国際的なキャリアを築き、当時のヨーロッパ音楽界に大きな影響を与えた作曲家」です。母でも父でもなく、これが事実に即した記述になります。
この言い方には「母」ほどのインパクトはありません。しかし、実際に何をした人なのかが正確に伝わります。国際的なキャリア、オペラとオラトリオという2ジャンルでの成功、興行主としての活動、屋外音楽から鍵盤協奏曲まで及ぶ守備範囲。どれも比喩ではなく、確認できる事実です。
音楽を聴くときも同じで、「音楽の母の曲だから優しいはず」という先入観を持って《ハレルヤ》を聴くと、その力強さに戸惑うことになります。先に称号を外し、何のために書かれた曲かを知ってから聴く。この順番のほうが、曲の意図が正確に届きます。クラシックを長く楽しみたい方ほど、ラベルより成立事情を優先することをおすすめします。
それでも称号が持っている、入口としての価値
ここまで批判的に書いてきましたが、称号を全否定するつもりはありません。「音楽の母」という言葉があったからヘンデルの名前を覚えた人は、日本に何百万人といるはずです。入口としての機能は確実に果たしてきました。
問題があるのは、そこで止まってしまう場合です。「バッハが父でヘンデルが母」という2つのラベルだけを持って音楽史を眺めると、その間にいる無数の作曲家も、2人の実際の違いも見えません。称号は地図の入口の看板であって、地図そのものではないのです。
この記事を読んだ方には、次の一歩として《メサイア》の《ハレルヤ》と《セルセ》の《オンブラ・マイ・フ》を続けて聴いてみることをおすすめします。同じ作曲家がこれだけ違う音楽を書いたという事実は、どんな称号よりもヘンデルという人を教えてくれます。称号から入って、作品で確かめる。この順序なら、ラベルは害になりません。
まとめ|「音楽の母」の呼び名を外すと、ヘンデルの姿が見えてきます
「音楽の母」という呼び名は、バッハを「音楽の父」と呼ぶことに対して対称性を作るためだけに生まれた造語でした。ヘンデルは男性であり、この呼び方をしているのは日本だけです。それでもこの称号がヘンデルという名前を多くの人に届けてきたことは事実なので、入口として使ったうえで、その先に進むのが一番よい付き合い方だと思います。最初の一歩としては、《メサイア》の《ハレルヤ》と《セルセ》の《オンブラ・マイ・フ》を続けて聴いてみてください。同じ作曲家がこれだけ振れ幅のある音楽を書いたという事実が、どんな称号よりも雄弁にこの人を説明してくれます。
なお、本記事の生没年・作曲年・初演日などは公開されている資料をもとに整理したものです。作品の成立事情や逸話には諸説あるものもあるため、詳細を確認したい場合は下記の出典や、各作品の校訂版楽譜の解説をあわせてご覧ください。
参考にした主な資料:ヤマハ「音楽の歴史・バロック」/ミュージックバード「『音楽の母』って」

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