「ラフマニノフの前奏曲」と聞いて頭に鳴るのは、ほとんどの場合あの1曲ではないでしょうか。低音の重い打ち込みから始まり、鐘が鳴り響くように音が広がっていく嬰ハ短調の作品です。ところが前奏曲は、その1曲では終わりません。Op.3-2のほかにOp.23の10曲、Op.32の13曲があり、合わせて24曲。並べてみると、長調と短調あわせて24の調がひとつずつ出そろう構成になっています。
結論から書きます。ラフマニノフの前奏曲は「有名な1曲」としてではなく「24曲でできた1枚の地図」として眺めたほうが、選曲も譜読みもはるかに進めやすくなります。難易度の幅は広く、嬰ハ短調のように中級の表記が与えられている曲もあれば、上級クラスに置かれる曲もあります。どこから手をつけるかは、この地図のどこに自分が立っているかで決まるからです。
この記事では、24曲がどう分かれているのか、「鐘」だけが突出して知られるようになった経緯、Op.23とOp.32それぞれの調と発想標語の一覧、難易度をどの物差しで読むか、そして楽譜の版による違いまでを、出版社とピアノ曲事典の公式表記をもとに一気に整理します。
・前奏曲がOp.3-2/Op.23/Op.32の3つに分かれている理由と、24曲で24調がそろう構造
・Op.23の10曲とOp.32の13曲、それぞれの調と発想標語の一覧
・「中級C級」「ステップ23」など、難易度表記の物差しの読み分け方
・全音版とヤマハ版、2つの楽譜の収録内容・校訂方針・価格の違い
ラフマニノフ前奏曲は24曲で1セット|3つの作品番号に分かれている理由

前奏曲は3つの作品番号に散らばって出版された
ラフマニノフの前奏曲を探しにいくと、まず「どこを見ればいいのか分からない」という壁に当たります。理由ははっきりしていて、24曲が1冊にまとめて書かれたのではなく、3つの作品番号に分かれて世に出たからです。最初が幻想的小品集Op.3の第2曲にあたる嬰ハ短調で、1892年に作曲され1893年に出版されました。次が10曲からなるOp.23で、出版は1903年。最後が13曲のOp.32で、1910年の作曲・出版です。
つまり嬰ハ短調の1曲だけは、そもそも「前奏曲集」として構想された曲ではありません。全5曲からなる小品集の中の1曲として書かれたものが、結果として単独で広まったという成り立ちです。楽譜を探すときに「ラフマニノフ 前奏曲集」で検索してもOp.3-2が出てこないことがあるのは、この出自の違いが原因です。
この分かれ方を知らないまま曲を探すと、「有名なあの曲」と「前奏曲集」が別物のように見えてしまいます。まずは3つの作品番号がセットで1つのグループを作っている、と頭に入れておくと、楽譜選びの段階で迷わなくなります。
24曲を並べると24の調がひとつずつ出そろう
3つに分かれた24曲を調で並べ替えると、面白いことが起きます。嬰ハ短調、Op.23の10の調、Op.32の13の調が重複せず、長調と短調あわせて24の調をちょうど1つずつ埋めるのです。ピアノ曲事典の解説でも、Op.32の第10番ロ短調について「24調のコレクションを完成させた」という位置づけで説明されています。
前奏曲というジャンル自体が、もともと本編の前に置かれる導入的な曲を指す言葉でした。それが単独で完結する性格的小品のジャンル名として定着し、さらに「全調を1曲ずつ書く」という形式に発展していった流れの上に、ラフマニノフの24曲も立っています。バッハ以来、作曲家が全調を一巡する曲集を書いてきた系譜の延長線にある、と考えると位置づけがつかみやすくなります。
この構造が分かると、選曲の発想が変わります。「有名な曲から探す」のではなく「弾きたい調・響きから探す」ことができるからです。重く沈む短調を弾きたいのか、明るく開けた長調のテクスチャを弾きたいのかで、候補は一気に絞り込めます。
全曲を通す規模はどれくらいになるのか
規模感も押さえておきましょう。ピアノ曲事典の記載では、Op.23の10曲を全曲通して演奏すると約34〜35分、Op.32の13曲は約35〜40分かかります。Op.3-2は単独で約4分です。リサイタルのプログラムで「前奏曲集より」と抜粋されることが多いのは、1つの作品番号だけでも前半または後半をまるごと使う長さになるからです。
この時間は、独学で取り組む人にとっても意味のある数字です。1曲あたりの平均を考えると、Op.23もOp.32も1曲が3分前後の中規模な小品で構成されていることが分かります。ソナタのように長大な楽章を抱える必要はなく、1曲単位で完結させて次に進める。これは練習の設計上、大きな利点です。
次の表で、3つのグループの違いを一度に見比べておきます。作曲年・曲数・演奏時間・難易度の目安がそれぞれ違うので、自分がどこに入っていくのかの見当をつけてください。
| 項目 | Op.3-2「鐘」 | Op.23 | Op.32 |
|---|---|---|---|
| 曲数 | 1曲(幻想的小品集Op.3の第2曲) | 10曲 | 13曲 |
| 作曲年 | 1892年 | 第5番のみ1901年、ほかは1902〜1903年 | 1910年 |
| 出版年 | 1893年 | 1903年 | 1910年 |
| 演奏時間の目安 | 約4分 | 全曲で約34〜35分 | 全曲で約35〜40分 |
| 難易度の目安 | 中級(全音のピアノピースでC級) | レベル6(中級)〜9(上級)に分布 | 大半が上級クラス |
| よく取り上げられる曲 | 嬰ハ短調「鐘」 | 第5番ト短調(Alla Marcia) | 第10番ロ短調、第13番変ニ長調 |
「鐘」はなぜこれほど有名になったのか|1892年の初演と40ルーブルの報酬
モスクワ電気博覧会の祝賀会で作曲者自身が初演した
嬰ハ短調の前奏曲が最初に人前で鳴ったのは、1892年10月8日のことです。場所はモスクワ電気博覧会の祝賀演奏会で、弾いたのは作曲者本人でした。この年、ラフマニノフはモスクワ音楽院を卒業したばかりで、作曲家としても演奏家としてもこれからという時期です。作曲は1892年、出版は翌1893年ですから、書いてすぐ舞台に乗せた曲だったことになります。
初演の場が音楽ホールの定期公演ではなく博覧会の祝賀会だった、という点は知っておく価値があります。クラシックの名曲というと厳かな初演風景を想像しがちですが、この曲は催事の余興的な枠で世に出て、そこから広がりました。作品の格と出発点の華やかさは、必ずしも一致しないということです。
曲の形式は三部形式で、全体は62小節。約4分という長さは、演奏によって3分12秒ほどから5分10秒ほどまで幅があります。同じ曲でも2分近く差が出るのは、後述する中間部のテンポ設定と、鐘の響きをどれだけ長く残すかの解釈が奏者ごとに違うためです。
「鐘」という呼び名はクレムリンの鐘の音から来ている
この曲が「鐘」「モスクワの鐘」と呼ばれるのは、モスクワのクレムリン宮殿の鐘の音が着想源だと伝えられているからです。楽譜のタイトルにその言葉が書かれているわけではなく、あくまで通称として定着したものです。曲名で検索するときに「前奏曲 嬰ハ短調」と「鐘」の両方で当たりをつけると、探し物が早く見つかります。
音の作りも、この呼び名を裏づけています。冒頭は低音を重く打ち込む音型から始まり、続いてカリヨン、つまり複数の鐘が重なって鳴る響きの模倣がppp(ごく弱く)で置かれます。クライマックスではsffffという強烈な指示が現れ、鐘の打撃音が正面から鳴る場面が来ます。ppp から sffff まで、指示された幅がそのまま曲の設計図になっているわけです。
ここが演奏上の分かれ目になります。強い場所を強く弾くのは誰でもできますが、鐘らしさを出すのはむしろ弱い側です。ppp で複数の声部を均一に鳴らし、音が減衰していく時間まで含めて聴かせられるかどうか。ここを丁寧に作ると、同じ音符でも響き方が変わります。
楽譜が世界中で売れても報酬は40ルーブルだった
この曲にはもう一つ、よく語られる話があります。出版にあたって作曲者が受け取った報酬は40ルーブルだけだった、というものです。当時のロシアが著作権に関する国際条約(ベルン条約)に加盟していなかったため、楽譜が国外でどれだけ売れても作曲者に追加の収入が入らない仕組みだったと説明されています。
結果として、この前奏曲はラフマニノフのピアノ曲のなかでもっとも広く知られる1曲になった一方、作曲者本人の懐はほとんど潤いませんでした。作品の知名度と作曲者の実入りが一致しない例として、音楽史のなかでもよく引かれるエピソードです。
なお、この手の逸話は伝聞で膨らみやすいので、金額や条約の話は「そう伝えられている」という距離感で受け取るのが安全です。ここで重要なのは金額そのものより、19世紀末のロシアの作曲家が置かれていた出版環境が今とまったく違った、という構造のほうです。
聴衆が「C sharp!」と叫ぶ状況が作曲者を疲れさせた
ここが、この曲をめぐるもっとも皮肉な部分です。あまりに有名になった結果、演奏会場では聴衆が「C sharp!」(嬰ハ=この曲の調)と叫んでリクエストするほどになり、ラフマニノフ自身はこの曲を弾くことを嫌がるようになったと伝えられています。自作のなかで1曲だけが突出して求められ続ける状況は、作曲家にとって喜びばかりではなかったということです。
この背景を知っておくと、曲への向き合い方が少し変わります。「鐘」はラフマニノフの代表作ではありますが、彼の前奏曲の全体像を代表しているわけではありません。事実、後のOp.23やOp.32には、この曲とは響きも書法も違う曲がいくつも入っています。
逆に言えば、「鐘」しか知らない状態で「ラフマニノフの前奏曲は重くて暗い」と決めてしまうのは早すぎます。次章以降で見るように、行進曲風のもの、歌うようなもの、軽快に動くものまで、24曲の表情はかなり広く散らばっています。
前奏曲(プレリュード)=もとは組曲やフーガなど本編の前に置かれる導入的な曲を指す言葉。19世紀以降は単独で完結する小品のジャンル名として使われ、全24調を1曲ずつ書く形式も定着した。ラフマニノフの24曲もこの系譜に属する。
Alla Marcia(アッラ・マルチャ)=「行進曲風に」。Op.23の第5番に付けられた発想標語で、この曲が「行進曲風の前奏曲」と呼ばれる由来になっている。
Op.23の10曲を1枚の表で見る|1901〜1903年に書かれた10の調

第5番だけが先に、1901年に書かれている
Op.23の10曲は一気に書かれたわけではありません。ピアノ曲事典の解説によれば、第5番だけが1901年の作で、残りの9曲は1902年から1903年にかけて書かれ、1903年に10曲まとめて出版されています。第5番が先行しているのは偶然ではなく、この曲が単独で演奏されることを前提にした完結性を持っているためと見るのが自然です。
1901年前後という時期も押さえておきたいところです。ラフマニノフはこの年にピアノ協奏曲第2番とチェロソナタを書いており、作曲家として大きく前に出た時期にあたります。Op.23の書法が厚く、ピアノの響きを鳴らしきる方向に振れているのは、この時期の作風とつながっています。
曲順で弾く必要はありません。10曲は独立した小品なので、第1番から順に取り組む決まりはなく、実際のコンサートでも数曲を抜き出して並べる形が一般的です。自分の手に合う曲、弾きたい響きの曲から入って構いません。
10曲の調と発想標語を一覧にする
選曲の材料として、10曲の調と発想標語を一覧にしておきます。発想標語は曲の性格をそのまま表しているので、「どんな曲か」の第一印象をつかむのにいちばん早い情報です。LargoやAndanteと書かれていればゆったりした歌もの、PrestoやAllegroなら速い動きが中心、と当たりをつけられます。
| 番号 | 調 | 発想標語 |
|---|---|---|
| 第1番 | 嬰へ短調 | Largo |
| 第2番 | 変ロ長調 | Maestoso |
| 第3番 | ニ短調 | Tempo di Minuetto |
| 第4番 | ニ長調 | Andante Cantabile |
| 第5番 | ト短調 | Alla Marcia |
| 第6番 | 変ホ長調 | Andante |
| 第7番 | ハ短調 | Allegro |
| 第8番 | 変イ長調 | Allegro Vivace |
| 第9番 | 変ホ短調 | Presto |
| 第10番 | 変ト長調 | Largo |
調の並びを見ると、短調と長調が交互に近い形で配置され、♯系と♭系も散らばっています。第9番の変ホ短調(♭6つ)や第10番の変ト長調(♭6つ)のように調号の多い曲も含まれているので、調号に苦手意識がある人は先に読みやすい調の曲から入るのが現実的です。
第5番ト短調が「2番目の有名曲」になった理由
Op.23のなかで単独の演奏機会がもっとも多いのが第5番ト短調です。Alla Marcia(行進曲風に)という発想標語から「行進曲風の前奏曲」の愛称で呼ばれ、嬰ハ短調に次いで知られる存在になっています。刻むようなリズムが最初から最後まで一貫して流れるため、初めて聴く人にも構造がつかみやすいことが、広まった理由のひとつでしょう。
ただし「分かりやすい=弾きやすい」ではありません。Op.23の各曲はレベル6(中級)から9(上級)の範囲に分布しており、脱中級レベルの技術が前提とされています。第5番も行進のリズムを保ったまま音を厚くしていく場面があり、一定の打鍵の速さと腕の支えが要求されます。
取り組むなら、リズムの骨格を先に固めるのが近道です。旋律を追う前に、左手の刻みだけをテンポを落として揃える。刻みが安定していない状態で右手を乗せると、行進が崩れて曲の性格そのものが消えてしまいます。
独学でよくある失敗が、行進曲風の第5番を「リズムが単純そうだから」と最初の1曲に選び、中間部で完全に手が止まるパターンです。原因は難易度の見積もり違いで、Op.23はレベル6〜9に分布する曲集であり、聴いた印象の分かりやすさと譜面の要求は別物です。対策は、選曲の前に楽譜の中間部から先に開くこと。曲頭だけを見て判断すると、厚い和音や音域の跳躍が集まる中盤を見落とします。
Op.32の13曲で24調が出そろう|1910年に何が変わったのか
1910年に13曲を書き足して全調が埋まった
Op.32の13曲は、すべて1910年に書かれ、同じ1910年に出版されています。Op.23の出版から7年後の作で、この13曲が加わったことで嬰ハ短調とOp.23と合わせた24曲が、24の調をひとつずつ埋める形になりました。ピアノ曲事典でも、第10番ロ短調について「24調のコレクションを完成させた」という説明が与えられています。
ピアノ曲事典の解説では、Op.32はOp.23と比べて近代的な技法の影響が見られる一方、感情面の性格は基本的に同じだと整理されています。つまり作風が断絶したのではなく、書法の語彙が広がったという理解が適切です。和声の動きや音の置き方に新しさが出ながら、ロシア的な旋律と厚い響きは引き継がれています。
全13曲を通す演奏時間は約35〜40分。Op.23と同じく、抜粋で数曲を組む演奏が一般的です。1曲ごとの独立性が高いので、聴く側としても好きな曲から入れる曲集です。
13曲の調と発想標語を一覧にする
こちらも一覧で見ておきましょう。Op.23の表と見比べると、Op.32には長調の曲が多く含まれていることが分かります。ラフマニノフ=重厚な短調、というイメージだけで曲を探すと、この長調群をまるごと見落とすことになります。
| 番号 | 調 | 発想標語 |
|---|---|---|
| 第1番 | ハ長調 | Allegro vivace |
| 第2番 | 変ロ短調 | Allegretto |
| 第3番 | ホ長調 | Allegro vivace |
| 第4番 | ホ短調 | Allegro con brio |
| 第5番 | ト長調 | Moderato |
| 第6番 | ヘ短調 | Allegro appassionato |
| 第7番 | ヘ長調 | Moderato |
| 第8番 | イ短調 | Vivo |
| 第9番 | イ長調 | Allegro moderato |
| 第10番 | ロ短調 | Lento |
| 第11番 | ロ長調 | Allegretto |
| 第12番 | 嬰ト短調 | Allegro |
| 第13番 | 変ニ長調 | Grave |
第10番ロ短調と絵画「死の島」の関係
Op.32のなかで背景の語られ方がはっきりしているのが第10番ロ短調です。この曲は、アルノルト・ベックリンの絵画「死の島」から着想を得たと説明されています。ラフマニノフは同じ絵画にもとづく管弦楽作品も書いており、この画題が彼の創作に繰り返し関わっていたことが分かります。
発想標語はLento、つまりゆるやかな速度です。速い音符が連続するタイプの難しさではなく、遅いテンポのなかで厚い和音を均一に鳴らし、長い時間軸で緊張を保つタイプの曲になります。速度がゆっくりであることと弾きやすいことは別問題で、遅い曲ほど音の粒のばらつきが露出します。
ここに、この曲集を語るうえで押さえておきたい視点があります。第10番は力強く規模も大きい曲ですが、聴いた印象ほど難易度が高くない、と整理されている資料があるのです。逆に、地味に聞こえる曲のほうが譜面の要求は厳しい、ということも起こります。聴感だけで難易度を推し量ると、選曲を外します。
第13番変ニ長調がセットの締めくくりになる
13曲の最後に置かれた第13番変ニ長調は、Grave(重々しく)の標語を持ち、曲集を閉じるにふさわしい規模を備えています。難易度を数値化した資料では、この曲に28という値が与えられ、Op.32のなかでも上位に位置づけられています。続いて難しい曲としてOp.32-6、Op.32-4が挙げられています。
変ニ長調は♭5つの調で、黒鍵を多用する運指になります。黒鍵中心の調は、慣れると手のポジションが安定して弾きやすい面もありますが、読譜の段階では負荷が上がります。調号に対する抵抗感がある人は、この曲を最初の1曲に選ばないほうが無難です。
Op.32全体としては、大半の曲が上級クラスに属します。Op.23で中級寄りの曲から入り、書法に慣れてからOp.32に進む、という順序が現実的な組み立てになります。

「世界一難しいピアノ曲」で検索すると、サイトごとに1位が違います。アルカンを挙げるところもあれば、リゲティ、ソラブジ、ラヴェルの「スカルボ」を挙げるところもある…
難易度はどの物差しで読むのか|C級・ステップ23・レベル表の関係
難易度表記には少なくとも3つの物差しがある
ラフマニノフの前奏曲を調べていると、「中級」「C級」「ステップ23」「レベル9」「難易度28」といった表記が入り混じって出てきます。混乱するのは当然で、これらは別々の物差しの目盛りだからです。物差しが違うものを直接比べても意味がありません。
1つ目は出版社のピース級です。全音楽譜出版社のピアノピースはA級から段階的に難易度を分け、嬰ハ短調の前奏曲は中級にあたるC級に置かれています。2つ目がピティナ・ピアノ曲事典の難易度表記で、同じ曲にステップ23(アドヴァンス5)が与えられています。3つ目が、曲ごとに数値を振って序列化した難易度表の類で、Op.23の各曲をレベル6〜9に分布させたり、Op.32-13に28という値を与えたりしているのはこの系統です。
使い分けの原則はシンプルです。楽譜を買う段階では出版社のピース級、練習の到達段階を測るならピティナの表記、曲どうしの相対的な重さを見たいときは難易度表。1つの数字で全部を判断しようとすると、必ずどこかで実態とずれます。
嬰ハ短調は「中級」の表記でも難所が集中している
嬰ハ短調の前奏曲は中級(C級)の表記ですが、この表記だけで「中級者なら弾ける曲」と読むと危険です。難所は明確に3か所に集中しています。冒頭の低音の打ち込み、中間部の即興的なパッセージ、そしてsffffが現れるクライマックスです。
冒頭は音数が少なく譜読み自体は速く終わります。そのため「簡単な曲」という誤解が生まれやすいのですが、少ない音で鐘の重さを出すのは、音数の多い曲とは別種の難しさです。打鍵の速度と深さをコントロールしないと、ただ大きいだけの音になります。
そして中間部で難度が跳ね上がります。即興的に動くパッセージが入り、曲の顔つきが変わる。ここで手が止まる人が多いので、曲を選ぶ段階で必ず中間部の譜面を確認してください。下のカードに、この曲の基本情報を整理しておきます。
| 分類・形式 | 幻想的小品集 Op.3(全5曲)の第2曲/三部形式 |
| 規模の目安 | 62小節/演奏時間約4分(演奏により3分12秒から5分10秒ほどの幅) |
| 難易度の表記 | 中級(全音のピアノピースでC級)/ピティナ・ピアノ曲事典でステップ23(アドヴァンス5) |
| 技術的な要点 | 冒頭の重い低音、pppでのカリヨン(鐘)の模倣、中間部の即興的パッセージ、sffffのクライマックス |
| 向いている人 | 中級の曲を1曲仕上げたい人/弱音の響きの作り方を集中的に練習したい人 |
一次情報として、この曲の難易度表記と解説はピティナ・ピアノ曲事典の該当ページで確認できます。曲を選ぶ前に、事典側の表記も見ておくと判断がぶれません。
聴いた印象と難易度は一致しない
意外と知られていないのが、「派手に聞こえる曲ほど難しい」わけではない、という事実です。先に触れたOp.32-10はその代表例で、力強く規模も大きい曲でありながら、聴いた印象より難易度は低めと整理されています。逆にOp.23-7は練習曲的で情熱的な性格を持ち、Op.23-9は高い難易度が指摘されています。
なぜこうしたずれが起きるのか。理由は、聴き手が感じる「難しさ」の多くが音量とテンポで作られるからです。遅くて厚い曲は堂々と聞こえますが、譜面上は和音の連続で運指の負荷が低いことがあります。一方、速い分散和音や内声の動きは、聴いていると流れていくだけに見えて、弾く側には細かい制御を要求します。
ここから導かれる選曲の実務は1つです。録音で曲を決めたら、必ず楽譜の実物(または試し読みページ)を見てから決める。聴感と譜面の両方を突き合わせた段階で、はじめて「自分に合うか」の判断材料がそろいます。

「ショパンのノクターンを弾いてみたいけれど、自分の実力で手が届くのかがわからない」——ピアノを再開した大人の学習者から、この種の質問がいちばん多く出ます。楽譜売…
タイプ別・最初に手をつける1曲の決め方
読者のタイプ別に、現実的な入り口を整理します。まず「有名なあの1曲を仕上げたい」人は、嬰ハ短調のOp.3-2一択で構いません。中級の表記が与えられており、62小節と規模も限定的なので、1曲を仕上げる経験としてまとまりがよいからです。
次に「前奏曲集としてまとまった形で知りたい」人は、Op.23から入ってください。レベル6の中級域に入る曲も含まれているため、Op.32から始めるより無理がありません。曲順どおりでなく、発想標語から性格を見て選んでよいのは先に書いたとおりです。
最後に「上級の曲に挑みたい」人は、Op.32のなかから調号の少ない曲を先に選ぶのが堅実です。Op.32-13(変ニ長調・♭5つ)やOp.32-12(嬰ト短調・♯5つ)のような調号の多い曲は、技術的な要求に読譜の負荷が上乗せされます。同じ上級でも、入り口の手前で消耗しない選び方があります。
ラフマニノフ前奏曲の楽譜は2つの版から選ぶ|全音版とヤマハ版の違い
どちらも24曲を1冊に収めている
国内で手に入る主な前奏曲集は2種類あり、どちらもOp.3-2、Op.23の全10曲、Op.32の全13曲を収めた計24曲構成です。収録内容が同じである以上、選ぶ基準は「どの曲が入っているか」ではなく、校訂方針・版面・価格の3点になります。
全音楽譜出版社版は2005年7月15日の刊行で、128ページ、菊倍判縦。校訂は平井丈二郎で、作曲家の校正による初版を底本にした校訂版です。商品説明では「ラフマニノフ直伝の演奏法に基づく校訂」と位置づけられ、ラフマニノフの指使いとペダルの指定、編者による加筆が区別して記載されているのが特徴です。価格は税込2,640円。
ヤマハミュージックエンタテインメント版は2018年2月9日の刊行で、120ページ、菊倍判縦。ブージー&ホークス社とのライセンス契約に基づく日本語ライセンス版の第2巻にあたり、序文と演奏についての助言をピアニストのピーター・ドノホーが担当しています。価格は税込3,630円程度で、旧版は3,080円程度とされていましたが現在は絶版です。
| 項目 | 全音楽譜出版社版 | ヤマハミュージックエンタテインメント版 |
|---|---|---|
| 収録曲 | Op.3-2、Op.23全10曲、Op.32全13曲の計24曲 | Op.23全10曲、Op.32全13曲、Op.3-2の計24曲 |
| ページ数・判型 | 128ページ/菊倍判縦 | 120ページ/菊倍判縦 |
| 刊行 | 2005年7月15日 | 2018年2月9日 |
| 校訂・監修 | 平井丈二郎/作曲家の校正による初版を底本に校訂 | ブージー&ホークス社とのライセンス版/序文・演奏助言はピーター・ドノホー |
| 指使い・ペダルの表記 | ラフマニノフの指示と編者の加筆を区別して記載 | 序文に演奏上の助言を収録 |
| 価格(税込) | 2,640円 | 3,630円程度(旧版3,080円程度は絶版) |
「指示の出どころが分かる」ことの実務的な価値
版選びで見落とされがちなのが、指使いとペダル指示の出どころです。全音版は、ラフマニノフ自身による指使い・ペダルの指定と、編者が補った加筆を区別して記載する方針をとっています。これは学習上、はっきりした利点があります。
なぜかというと、指使いが自分の手に合わないときの判断が変わるからです。作曲者自身の指定であれば、その運指を前提に音のつながりや強弱が設計されている可能性が高く、安易に変えると音楽が崩れます。一方、編者の提案であれば、手の大きさや指の長さに合わせて組み替える余地があります。出どころが書かれていない楽譜では、この区別ができません。
独学でやりがちなのが、書かれた指使いを無視して弾きやすい運指に変えてしまい、後から「この和音が届かない」「レガートがつながらない」と行き詰まるケースです。変えるにしても、まず記載どおりに試してから、理由を持って変える。この順番を守るだけで、後戻りの回数が減ります。
価格差より「読みやすさ」で決めるほうが後悔しにくい
2つの版には価格差がありますが、判断材料としては優先順位が高くありません。24曲を何年もかけて使う楽譜なので、1回あたりのコストで考えれば差は小さくなります。それより効いてくるのが、譜面の読みやすさです。
同じ曲数でも、全音版が128ページ、ヤマハ版が120ページという違いがあります。ページ数が多いほうが1ページあたりの音符の詰め込みが緩やかになりやすく、譜めくりの回数は増えても読む負担は下がる傾向があります。どちらが自分に合うかは、書店で実物の見開きを確認するのが確実です。
詳細は各社の公式ページで確認できます。全音楽譜出版社の商品ページにはISBN 978-4-11-160552-1を含む書誌情報が、ヤマハミュージックエンタテインメントの商品ページにはライセンス版としての成り立ちが記載されています。
弾き始める前に知っておきたいつまずき|低音・中間部・ペダルの3か所
低音の打ち込みは「力」ではなく「落とす速さ」で作る
嬰ハ短調の冒頭に置かれた重い低音は、多くの人が最初につまずく場所です。楽譜上は音数が少なく単純に見えますが、鐘の重さを出そうとして腕に力を入れると、音は大きくなっても響きが硬くなり、減衰も早くなります。
ピアノの発音は、ハンマーが弦を打つ速度で音の大きさと音色が決まる構造になっています。つまり腕に力を込めて押し込んでも、鍵盤が底に着いたあとの力は音に反映されません。必要なのは、鍵盤を下ろす速度と、打鍵後に力を抜いて響きを持続させることです。
練習方法としては、同じ和音を3種類の落とし方で弾き比べてみてください。腕の重みだけで落とす、指先を固めて落とす、手首を使って落とす。音の立ち上がりと余韻がそれぞれ変わるのが聴き取れれば、鐘の音に近い落とし方を自分で選べるようになります。
2つ目の典型的な失敗が、嬰ハ短調の中間部を最初から速いテンポでさらってしまうことです。中間部は即興的なパッセージで音が細かく動くため、運指を決めないまま速度を上げると、毎回違う指で弾く状態が手に定着します。対策は順番を変えること。まず運指を紙に書き込んで固定し、片手ずつゆっくり通し、テンポを上げるのは運指が完全に安定してからです。また、広い和音を無理に押さえて手に痛みが出た場合は練習を中断し、症状が続くときは医療機関に相談してください。
ペダルは「踏む場所」より「離す場所」で決まる
この曲集では和音が厚く、低音が長く鳴るため、ペダルの扱いが響きの善し悪しを直接左右します。ありがちな失敗は、響きを豊かにしようとして踏みっぱなしにし、低音と次の和音が混ざって濁るパターンです。
原因は、ペダルを踏む位置ではなく離す位置にあります。ダンパーペダルは踏んでいる間すべての弦の振動を残すため、和音が変わる瞬間に一度離して踏み直さなければ、前の和音が新しい和音に重なったまま残ります。テンポの遅い曲ほど、この重なりが長く聞こえるので目立ちます。
判断の基準はシンプルで、「和声が変わったら離す」です。まずペダルなしで両手を通し、和音が変わる小節と拍に印をつける。その印の位置で踏み替えると決めてから、ペダルを足してください。耳で濁りを判断する前に、楽譜上で切り替え位置を決めておくほうが確実です。

ピアノを練習していて「先生に手の形を直されるけれど、なぜその形なのか説明されていない」「手が小さいからオクターブが届かない、もう諦めるしかないのか」「30分弾く…
譜読みは「調号と拍子」から始めると速くなる
Op.23やOp.32には♭や♯が5つ6つ付く調の曲が含まれています。こうした曲で譜読みが進まない原因は、音符が読めないことではなく、調号が頭に入っていないまま1音ずつ読んでいることにあります。調号を先に固定すると、読む対象が「音の高さ」だけになり、処理量が半分近くまで減ります。
手順としては、最初に調号と拍子を確認し、その調の音階を数回弾いて手に入れる。そのうえで和音の骨組み(どのコードがどの順で来るか)を読み、最後に細かい音符を埋めていきます。上から下へ、大きい単位から小さい単位へ。この順番が譜読みの基本形です。
この順番を守ると、遠回りに見えて結果的に速く仕上がります。逆に、テンポを先に決めてから運指とペダルを後追いで直す進め方は、覚え直しの手間が何度も発生します。前奏曲のように1曲が3〜4分程度で完結する曲集では、1曲ごとにこの手順を回せるので、練習の型を作る教材としても機能します。
まとめ|24曲の地図を持ってから最初の1曲を選ぶ
ラフマニノフの前奏曲は、1892年の嬰ハ短調から1910年のOp.32まで、18年の幅をかけて書き継がれた24曲です。「鐘」が突出して知られている一方で、Op.23には行進曲風の第5番のような単独で映える曲があり、Op.32には絵画に着想を得た第10番のような曲が並びます。有名な1曲だけを見て判断すると、この広がりをまるごと取りこぼします。
最初の一歩としては、楽譜を1冊手に入れて、Op.23とOp.32の発想標語を上から眺めることをおすすめします。LargoなのかPrestoなのか、長調なのか短調なのか。それだけで、自分が弾きたい響きの曲が数曲に絞れます。そのうえで候補曲の中間部の譜面を確認すれば、難易度の見積もり違いによる挫折をかなりの確率で避けられます。録音で惚れ込む前に、譜面を開く。順番はこれで十分です。
なお、楽譜の価格や在庫状況、難易度の表記は改訂や改版によって変わることがあります。購入前に出版社の公式ページで最新の情報をご確認ください。

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