「音楽の父」と呼ばれるバッハには、教科書の肖像画からは想像しにくい人間くさい話がたくさん残っています。月明かりの下で兄の楽譜をこっそり書き写した少年時代、許可より3ヶ月以上長く旅先に居続けて教会に叱られた若手時代、コーヒーをテーマにした曲をコーヒーハウスで初演した壮年期。どれも一度聞くと忘れにくい話ですよね。
ただ、こうした話は「記録で裏づけられる史実」と「伝記の中で語り継がれてきた伝承」が混ざっています。そこで先に結論をお伝えすると、バッハのエピソードは年代と職場の流れに並べ、どの話がどの時期のどんな事情から生まれたのかを押さえると、単なる面白話ではなく、彼の音楽がなぜあの形になったのかを説明する材料に変わります。
この記事では、アイゼナッハに生まれてライプツィヒで亡くなるまでの65年を5つの職場で区切り、代表的なエピソードを7つの場面で解説します。さらに、ピアノでバッハを弾く人がエピソードを練習にどう活かせるか、真似するとつまずきやすい点まで整理しました。
・バッハの生涯を5つの職場で区切った全体像と、約1000曲・20人の子どもという数字の背景
・月明かりの写譜、リューベック旅行、ハンブルクでの即興演奏、コーヒー・カンタータの逸話が生まれた事情
・晩年の失明から、1829年のマタイ受難曲復活で再評価されるまでの流れ
・エピソードをピアノ練習や子どもへの説明に活かすときのコツと注意点
バッハのエピソードを読む前に|65年の生涯を5つの職場で区切る

アイゼナッハからライプツィヒまで、職場が変わるたびに作品の中身が変わった
バッハの生涯は、職場の移り変わりで整理すると一気に見通しがよくなります。1685年3月21日にアイゼナッハ(現在のドイツ・テューリンゲン州)で生まれ、1750年7月28日にライプツィヒで亡くなりました。その間の主な職歴は、アルンシュタットの聖ボニファティウス教会オルガニスト(1703〜1707年)、ミュールハウゼンの聖ブライ教会(1707〜1708年)、ヴァイマルの宮廷オルガニスト(1708〜1717年)、ケーテンの宮廷楽長(1717〜1723年)、そしてライプツィヒ聖トマス教会のカントル(1723〜1750年)です。
職場ごとに区切る理由は、当時の音楽家が「雇い主のために曲を書く職人」だったからです。教会のオルガニストならオルガン曲やコラールに関わる曲、宮廷楽長なら器楽曲、教会のカントルなら礼拝で歌うカンタータ、と求められる曲が変わります。つまり、どこで働いていたかがわかれば、その時期の作品の傾向もおおよそ読めるわけです。
エピソードで混乱しやすいのは、話の舞台と時期がばらばらに紹介されるケースです。たとえば「教会と揉めた話」はアルンシュタット時代、「コーヒー・カンタータ」はライプツィヒ時代の話で、30年近く離れています。この順番を知らないまま読むと、若い頃の衝突と晩年の地位争いが同じ人間関係の話に見えてしまいます。
読み進めるときは、エピソードに出会うたびに「5つの職場のどこの話か」を一度確認してください。これだけで、各話の背景にある立場や仕事の中身が自然につながります。
| 分類・方式 | バロック時代の作曲家・オルガン奏者・チェンバロ奏者。称号は「音楽の父」 |
| 生没年・生地 | 1685年3月21日アイゼナッハ生まれ/1750年7月28日ライプツィヒで死去 |
| 作品数・ジャンル | 約1000曲。協奏曲、ソナタ、スイート、カンタータ、鍵盤楽曲、受難曲など |
| ピアノ学習者との接点 | 平均律クラヴィーア曲集、ゴルトベルク変奏曲など、現在ピアノで弾かれる鍵盤作品が多い |
約1000曲を書けたのは「毎週の仕事」があったから
バッハの作品数は約1000曲とされています。数だけ聞くと超人的に思えますが、理屈で見ると「そうなる仕組み」がありました。ライプツィヒ聖トマス教会のカントルは、礼拝で演奏する音楽を用意するのが職務です。バッハは約210曲のカンタータを作曲し、その約80%がこのライプツィヒ時代に書かれています。
礼拝は毎週やってきますから、曲も継続して必要になります。作曲は「ひらめいたら書く」ものではなく、締め切りのある定期業務だったわけです。さらにバッハは、北ドイツのオルガン様式、イタリアの協奏様式、フランスの鍵盤楽器様式を統合したと評価されています。複数の国の書き方を身につけていたので、求められる曲の種類が変わっても対応できました。
よくある誤解は「天才だから次々に曲が湧いてきた」という読み方です。この読み方だと、後で紹介する写譜や遠方への旅のエピソードが「なぜそこまで学ぶ必要があったのか」とつながりません。実際には、若い頃に他人の楽譜を書き写し、名手の演奏を聴きに行って型を蓄えたからこそ、職場で量産できたと考える方が筋が通ります。
作品数の話をするときは「約1000曲」「カンタータ約210曲」と数字を分けて伝えると、仕事の中身まで含めて説明できます。
20人の子どもと、作曲家として名を残した4人の息子
バッハは2回結婚しています。最初の妻マリア・バルバラとの間に7人、2番目の妻アンナ・マグダレーナとの間に13人、合わせて20人の子どもがいました。そのうち作曲家として広く知られるようになった息子が4人います。
4人とは、ヴィルヘルム・フリーデマン(1710〜1784年)、カール・フィリップ・エマヌエル(1714〜1788年)、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ(1732〜1795年)、ヨハン・クリスティアン(1735〜1782年)です。アメリカ交響楽団の解説によれば、息子たちはそれぞれの時代に、父と同じかそれ以上に知られる存在になりました。音楽家の家系で、子どもが家業として音楽を継ぐのは当時珍しくありません。バッハ自身も、50歳だった1735年に家系図を作成し、それをカール・フィリップ・エマヌエルが書き継いでいます。
つまずきやすいのは、同じ「バッハ」という名前の作曲家が複数いることです。CDや楽譜で「C.P.E.バッハ」「J.C.バッハ」と書かれていたら息子の作品で、父ヨハン・ゼバスティアンとは作風の時代が違います。特にカール・フィリップ・エマヌエルは後期バロックから初期古典派への過渡期を担い、ヨハン・クリスティアンは古典派の作曲家として扱われます。
楽譜を探すときは、作曲者欄の頭文字まで確認してください。息子たちの作品は、父の時代の書法から古典派の書法へ移る過程を知る教材にもなります(出典:American Symphony Orchestra「The Sons of Bach」)。
| 時期 | エピソード | 舞台 | 読み方のポイント |
|---|---|---|---|
| 幼少期 | 月明かりで半年かけて写譜 | 兄のもと(オールドルフ) | 伝記で語り継がれる話。細部は資料で差がある |
| 1705年10月 | ブクステフーデを聴きに行き3ヶ月以上延長 | アルンシュタット→リューベック | 教会評議会との対立の記録と結びつく |
| 1720年 | ラインケンの前で2時間以上の即興演奏 | ハンブルク聖カタリーナ教会 | 「よく知られた逸話」として伝わる |
| 1734年頃 | コーヒー・カンタータ初演 | ツィンマーマンのコーヒーハウス | 作品と遺品で裏づけられる話 |
| 1750年 | 眼科医による2度の手術と全盲 | ライプツィヒ | 最晩年の創作の伝承と合わせて語られる |
| 1829年3月11日 | メンデルスゾーンがマタイ受難曲を復活上演 | ベルリン・ジングアカデミー | 死後の再評価の出発点 |
月明かりで半年間写譜した少年時代の話は何を物語るのか
兄に預けられた少年が、夜に楽譜を書き写した
最も有名なバッハのエピソードのひとつが、月明かりの写譜です。幼少期のバッハは、オールドルフでオルガニスト兼オルガン教師をしていた兄ヨハン・クリストフ・バッハ(1671〜1721年)のもとに預けられていました。兄の手元には当時の鍵盤音楽の大家たちの作品を集めた楽譜がありましたが、弟には見せてもらえなかったと伝えられています。
そこでバッハは、夜になるとこっそり楽譜を持ち出し、月明かりを頼りに書き写しました。期間は6ヶ月間。最終的には兄に見つかり、苦労して写した楽譜は取り上げられてしまいます。ところが話には続きがあり、膨大な楽譜を書き写しているうちに、すべて暗譜してしまっていたというのです(出典:Classic FM「Bach biography」)。
この話がなぜ今も語られるかというと、「楽譜が簡単に手に入らない時代だった」ことがよく伝わるからです。印刷楽譜は高価で、音楽家は他人の楽譜を手で写して学ぶのが普通でした。写譜は罰ゲームではなく、当時の正統な勉強法だったわけです。
この話を読むときは「根性の美談」として受け取るより、「手で写すことが学習手段だった時代の、少年の熱意の話」として受け取ると、後の作曲技法ともつながります。
写譜で暗譜できた、は理屈として筋が通る
「書き写していたら覚えてしまった」という部分は誇張に聞こえるかもしれませんが、音楽の構造から見ると筋の通る話です。鍵盤楽曲、とくに当時の対位法的な作品は、複数の声部(旋律の線)が同時に進みます。これを1音ずつ写そうとすると、どの声部がどこで入り、どう絡むかを追わなければ正確に書けません。
つまり写譜は、目で眺めるだけの読譜と違い、声部の動きや和音の進み方を一つずつ確認する作業になります。音の並びを「意味のあるまとまり」として処理するので、結果として記憶に残りやすくなるのです。ピアノの暗譜でも、指の動きだけでなく、和声や曲の形を理解した記憶が本番で崩れにくいとよく言われます。
ありがちな勘違いは、「写せば自動的に覚える」と考えることです。写譜が暗譜につながったのは、書き写す過程で構造を読み取っていたからで、ただ手を動かしただけではありません。この違いはピアノ練習に取り入れるときに大きく効いてくるので、見出し-7で改めて扱います。
暗譜にどんな種類の記憶が関わるのかを知っておくと、この逸話の「覚えてしまった」の中身がより具体的にイメージできます。

楽譜を閉じた瞬間に、さっきまで弾けていたはずの4小節が消える。暗譜に取り組んだことのある人なら、一度は経験する現象だと思います。もう一度楽譜を開けば思い出せるの…
「月明かり」「全部暗譜」は伝承として楽しむ
このエピソードは、バッハの伝記で長く語り継がれてきた話です。時期・人物・写譜期間といった骨格は複数の伝記で共通していますが、「月明かりだけで書いた」「全曲を暗譜した」といった細部は、本人の少年時代を後から振り返って語られたものです。現代の研究で一つひとつ証明できる種類の記録とは性質が違います。
音楽史の逸話は、同時代の公文書(契約書や教会の議事録など)で裏づけられる話と、弟子や家族、後世の伝記作家が伝えた話が混ざっています。後者は人物像を伝える力が強い一方で、印象的な部分ほど話が整えられやすい傾向があります。
具体的には、「兄は意地悪だった」と人物評価まで付け加えて語られることがあります。しかし、兄が楽譜を見せなかった理由は伝わっておらず、弟の年齢に合わない教材だと考えた可能性もあります。理由の部分を想像で補うと、兄の人物像を根拠なく悪く描くことになります。
人に話すときは「〜と伝えられています」と一言添えるだけで十分です。話の面白さを損なわず、史実と伝承の区別も保てます。
子どもや発表会のプログラム解説でエピソードを紹介するとき、「バッハは月明かりだけで全曲暗譜した」と断定で書いてしまう失敗がよくあります。原因は、出典の層(記録で裏づけられる話か、伝記で語り継がれた話か)を区別せずに、まとめ記事の文言をそのまま使うことです。対策は、年や場所などの骨格は資料どおりに書き、細部には「〜と伝えられる」を添えること。兄の意図のように資料に書かれていない部分は、想像で補わずに省きます。
約400km先のリューベックへ|許可より3ヶ月以上戻らなかった若きオルガニスト

1705年10月、ブクステフーデを聴くために旅に出た
バッハは1703年8月、アルンシュタットの聖ボニファティウス教会でオルガニストに就任しました。そして1705年10月、北ドイツのリューベックへ向かいます。目的は、当地で活躍していた作曲家・オルガニストのディートリッヒ・ブクステフーデの演奏を聴くことでした。アルンシュタットからリューベックまでは片道約400kmの距離があります。
教会から認められていた不在期間は数週間でした。ところがバッハはブクステフーデの音楽に強く惹かれ、この音楽家からできるだけ多くを学ぼうとして、予定より3ヶ月以上長く滞在します。仕事の持ち場を空けたままの長期不在ですから、帰ってきた彼を待っていたのは教会からの厳しい叱責でした。
なぜそこまでして北ドイツへ行ったのか。当時のドイツでは、北部に大規模なオルガンと、それを生かす華やかな即興的オルガン様式が根づいていました。前述のとおり、バッハは後に北ドイツのオルガン様式、イタリアの協奏様式、フランスの鍵盤楽器様式を統合したと評価されます。その一つ目の柱を、現地で直接吸収しにいった旅だったと読めます。
この話は「無断欠勤の武勇伝」として紹介されがちですが、音楽的には「北ドイツ様式を吸収した旅」として位置づけるのが中身に即した読み方です。
教会評議会と揉めた理由は、延長だけではなかった
アルンシュタット時代の対立は、リューベック旅行だけが原因ではありません。Classic FMの伝記によれば、バッハの新しい発想は信仰心の厚い人々に理解されず、コラール(会衆が歌う讃美歌)の伴奏に施した装飾や変奏の多さが人々を困惑させました。教会評議会との関係は悪化し、奇妙な音を持ち込んだこと、許可のない不在の両方を非難されています。
理屈で考えると、これは「仕事の目的」のずれです。教会の伴奏は、会衆が迷わず歌えるように旋律を支えるのが本来の役割です。そこへ和声を大胆に変えたり装飾を増やしたりすると、音楽としては面白くても、歌う側は旋律を見失います。若いバッハは芸術的な挑戦を優先し、雇い主は礼拝の実用性を求めた、というすれ違いです。
ほかにも、少年合唱団の指導に消極的だったこと、見知らぬ若い女性をオルガン席に入れたことも問題にされました。こうした積み重ねの末、バッハは1707年にミュールハウゼンの聖ブライ教会のオルガニスト職へ移り、同じ年の10月17日に従姉妹のマリア・バルバラと結婚しています。
このエピソードを語るときは、「才能を理解しない教会」という一方的な構図にせず、伴奏者として求められていた役割との衝突として説明すると、双方の事情が伝わります。
オルガニスト=教会でオルガンを弾き、礼拝の音楽を担当する職。カントル=教会の音楽監督にあたる職で、合唱の指導や礼拝用の曲の準備を担う。バッハはライプツィヒ聖トマス教会で1723年からカントルを務めた。コラール=ルター派教会で会衆が歌う讃美歌の旋律。オルガン曲やカンタータの素材として使われる。
この旅が後の作品に残したもの
リューベック旅行の意味は、帰ってきてからの仕事に表れます。バッハはアルンシュタットを離れた後、ヴァイマルで1708〜1717年に宮廷オルガニストを務めます。オルガンを主な仕事とする時期が続いたことで、北ドイツで吸収した書法を実際の職務で使い続けることになりました。
音楽の学び方として見ると、写譜が「楽譜から学ぶ」方法だったのに対し、リューベック旅行は「演奏の現場から学ぶ」方法です。楽譜には音の高さと長さは書けても、響きの広がりや、大きな楽器を実際にどう鳴らすかといった情報は書ききれません。現地へ行く意味はそこにありました。
現代のピアノ学習者に置き換えると、楽譜だけで練習して行き詰まったとき、演奏会や録音を聴いて「実際の響き」を確認するのと同じ構図です。ありがちな失敗は、録音を聴いて速さや雰囲気だけを真似し、なぜその響きになるのか(ペダルの使い方、声部のバランス)を確かめないことです。
バッハの旅から学べるのは「聴きに行くこと」そのものより、「聴いたものを自分の仕事の型に取り込むこと」です。演奏を聴いたら、気づいた点を1つだけ楽譜に書き込み、次の練習で試してみてください。
「この芸術は死んだと思っていた」|ハンブルクで老大家が語った言葉の重み
1720年、コラールを素材に2時間以上即興した
1720年、35歳のバッハはハンブルクを訪れ、聖カタリーナ教会(Katharinenkirche)で演奏しました。この訪問の背景には、ハンブルクの聖ヤコビ教会のオルガニスト職など、仕事の機会を探す目的があったとされています。当時のバッハはケーテンの宮廷楽長でした。
聴衆には市の有力者のほか、牧師で詩人のノイマイスターや、音楽評論でも知られるマッテゾンらがいたと伝わります。そして、その教会のオルガニストで高名な老大家ヨハン・アダム・ラインケンも耳を傾けていました。バッハはコラール「バビロンの川のほとりで(An Wasserflüssen Babylon)」を素材に、2時間以上にわたる即興演奏を行いました。
アトランタ交響楽団の作曲家解説では、これを「よく知られた逸話」として紹介し、演奏を聴いたラインケンが「この芸術はもう死んだと思っていたが、あなたの中に生きているのがわかった」と述べたとしています(出典:Atlanta Symphony Orchestra「Johann Sebastian Bach」)。
この言葉は、若い世代が大家に認められた場面として語られます。ただ、発言の細部は伝承なので、引用するときは「〜と語ったと伝えられる」と添えるのが安全です。
「死んだ芸術」とは何を指していたのか
ラインケンの言葉の中の「この芸術」は、コラールの旋律を素材にしてその場で大規模なオルガン曲を組み立てる、北ドイツ伝統の即興技術を指すと理解されています。バッハがリューベックでブクステフーデから吸収しようとした系譜と、ちょうど重なる技術です。
なぜ「死んだと思っていた」のか。コラールを素材にした即興は、旋律を単に伴奏するのではなく、その旋律を別の声部で模倣させたり、形を変えて何度も登場させたりしながら、長い曲を破綻なく組み立てる必要があります。楽譜に書いて推敲するのと違い、演奏しながら同時に構成を考えるので、和声と対位法を体に染み込ませていないとできません。習得に長い年月がかかる技術は、担い手が減ると途絶えやすいのです。
ありがちな誤解は、「即興=自由に思いつきで弾くこと」と捉えることです。実際には、ルールの蓄積が深いほど自由に振る舞える、という性質の技術でした。少年時代の写譜で型を覚え、リューベックで北ドイツの様式に触れた経験が、この場面で一本につながります。
エピソード同士をつなげて読むと、「写す→聴きに行く→即興で使う」という学びの流れが見えてきます。
即興(インプロヴィゼーション)=楽譜を用意せず、演奏しながら音楽を作ること。バロック時代のオルガニストには必須の技能だった。フーガ=最初に示した主題を、別の声部が時間差で追いかけるように模倣しながら進む曲の形式。対位法=独立した複数の旋律を同時に鳴らし、互いに調和させる作曲技法。
ピアノで弾くバッハに、即興の名残はある?
バッハは鍵盤楽器の名手であり、その技術は書かれた鍵盤作品にも反映されています。代表例が平均律クラヴィーア曲集やゴルトベルク変奏曲です。ゴルトベルク変奏曲は、ひとつの主題をもとに変奏を重ねていく構成で、「素材を形を変えて展開する」という点で、コラールを素材にした即興と発想が共通しています。
ただし、当時の鍵盤楽器は現代のピアノではなく、チェンバロやオルガン、クラヴィコードでした。チェンバロは弦をはじいて鳴らすため、指のタッチで音量の強弱をつけにくい構造です。そのためバッハの鍵盤曲では、音量の変化よりも声部の重なりの厚さや、旋律の動きそのものが表現の中心になります。
ピアノでバッハを弾くときにつまずきやすいのは、ロマン派の曲と同じ感覚でペダルを多用して声部の輪郭をぼかしてしまうことです。原因は、楽器の構造の違いを意識していないことにあります。
最初は、ペダルを使わずに各声部の旋律がくっきり聞こえるかを確認してから、響きを足すかどうかを判断すると失敗しにくくなります。チェンバロとピアノの発音の違いを知っておくと、強弱記号の少ない楽譜の読み方も変わります。

遺品にコーヒーポット5つ|コーヒー・カンタータがコーヒーハウスで初演された理由
コーヒー好きの娘と、やめさせたい父親の喜劇
バッハのエピソードで親しみやすさが際立つのが、コーヒーの話です。作品名は《おしゃべりはやめて、お静かに》(BWV.211)。ピカンダーが1732年に詩を書いた世俗カンタータで、一般には「コーヒー・カンタータ」として知られています。初演は1734年頃、ライプツィヒにあったツィンマーマンのコーヒーハウスでした。
物語は、コーヒーを愛する娘と、それをやめさせたい父親の掛け合いです。当時広まり始めたコーヒー文化を背景に、父娘のやり取りがコミカルに描かれています。編成はソプラノ・テノール・バスの独唱に、弦楽器、オーボエ、通奏低音が加わります。
「バッハ=厳格な教会音楽」というイメージを持っている人ほど、この作品には驚くはずです。しかし理屈で見れば不思議ではありません。カンタータという形式は、教会の礼拝用(教会カンタータ)だけでなく、祝典や娯楽の場で演奏する世俗カンタータもあり、バッハは両方を書いています。題材が宗教か日常かの違いで、書き方の技術は共通しているのです。
聴く前に「娘と父の会話劇」だと知っておくと、独唱者の役割分担が追いやすくなり、言葉がわからなくても場面の切り替わりを楽しめます(出典:ONTOMO「コーヒー・カンタータ」解説)。
| 分類・作品番号 | 世俗カンタータ《おしゃべりはやめて、お静かに》BWV.211 |
| 作詞・初演 | ピカンダー作詞(1732年)/1734年頃、ツィンマーマンのコーヒーハウスで初演 |
| 編成 | 独唱(ソプラノ・テノール・バス)、弦楽器、オーボエ、通奏低音 |
| 向いている人・用途 | 宗教曲以外のバッハに触れたい人、声楽作品の入門として物語から聴きたい人 |
なぜ喫茶店が初演の場になったのか
現代の感覚だと「喫茶店で新作初演」は小規模なイベントに思えますが、当時のコーヒーハウスは位置づけが違いました。ドイツでは1680年代からコーヒーが流行し、1734年頃のライプツィヒには8軒のコーヒーハウスがありました。そこは単なる飲食店ではなく、知識人や学生が集まる社交の場として機能していました。
ツィンマーマンのコーヒーハウスでは、夏は庭園で、冬は屋内で、毎週2時間の演奏会が開かれていました。ライプツィヒの名物となっていたこの場所は、バッハにとって重要な活動拠点でした。教会のカントルとしての職務とは別に、市民に向けて器楽曲や世俗作品を披露する場があったわけです。
ここで押さえておきたいのは、演奏会場としてのホールが整う以前の時代だという点です。音楽を聴く場が、教会・宮廷・社交場に分かれていて、コーヒーハウスは「市民が音楽を聴く場」の一つでした。コーヒーを題材にした作品をコーヒーハウスで上演するのは、聴衆の関心に合わせた選曲として理にかなっています。
よくある誤解は、「バッハは教会の仕事の合間に気晴らしで書いた」とする読み方ですが、定期演奏会という継続的な場があった以上、仕事の一部として捉える方が実態に近いでしょう。
遺品のコーヒーポットは何を示す証拠か
バッハ本人がコーヒー好きだったとされる根拠は、遺品です。彼の遺品には、コーヒーポット5つと食器類が含まれていました。ONTOMOの解説では、ツィンマーマンの庭園にあるコーヒーハウスが彼の常連店だったとも紹介されています。
遺品目録のような記録は、後から話を膨らませた伝承と違い、実際に何を所有していたかを示す資料です。月明かりの写譜のような語り継がれた話と比べると、証拠の性質が違うことがわかります。エピソードを人に紹介するとき、「コーヒー好きだった」には根拠を示せますが、「毎日何杯飲んだ」といった数字は資料に出てこないので付け足さない方が安全です。
具体例として、コーヒー・カンタータの娘のせりふを「バッハ自身の本音」と紹介する文章を見かけることがあります。しかし詩を書いたのはピカンダーで、作品は喜劇として作られています。作者の嗜好と登場人物のせりふを同一視するのは、根拠を一段飛ばした読み方です。
「遺品=事実」「作品の中身=創作」と分けておけば、コーヒーの話は親しみやすさを保ったまま正確に紹介できます。
死後に忘れられた作曲家はどうして「音楽の父」になったのか
1749〜1750年、目の病と2度の手術
晩年のバッハは視力の問題に苦しみました。日本語版ウィキペディアの記述では、1749年5月頃に白内障の兆候が見られ、楽譜を書く仕事ができなくなったとされています。翌1750年3月、ドイツを訪れていたイギリスの眼科医ジョン・テイラーがライプツィヒに来て、3月末に1回目、4月中旬に2回目の手術が行われました。
テイラーは手術が成功し視力が回復したと述べましたが、実際には回復せず、バッハは全盲の状態になりました。そして1750年7月28日、65歳でライプツィヒで亡くなります。現代の医学水準とは比べられない時代の出来事で、ここで紹介しているのは歴史上の経過であり、病気の診断や治療の評価ではありません。
同じ時期には、聖トマス教会の楽長という地位を妬む人々の働きかけがあり、市参事会がバッハの存命中に後任としてゴットロープ・ハーラーを任命したとも伝えられています。職務を果たすのが難しくなった大家の周囲で、後継をめぐる動きが先に進んでいたわけです。
晩年の話は胸の痛む内容ですが、「最後まで働く職業音楽家だった」という面から読むと、65年の生涯の流れの中に位置づけやすくなります。
口述で作曲を続けたという最晩年の伝承
失明後もバッハは作曲をやめず、口述で曲を続けたと伝えられています。最後の作品とされるコラール前奏曲を、弟子に書き取らせたという話です。
この伝承が説得力を持つのは、バッハの作曲が「頭の中で完成させてから書く」ことのできる技術に支えられていたからです。先に見たハンブルクでの2時間以上の即興演奏が示すように、彼はコラールの旋律を素材にして、その場で声部を組み立てられました。紙に書けなくなっても、声部の動きを言葉で伝えれば弟子が書き取れる、という理屈です。
ただし、どの曲が「最後の作品」なのかについては、資料や解説によって挙げられる曲名が一致しないことがあります。ありがちな失敗は、ある一冊の解説に載っていた曲名を「これが絶筆」と断定してしまうことです。
この話を紹介するときは「最晩年にコラール前奏曲を口述で弟子に書き取らせたと伝えられる」までにとどめ、曲名を挙げる場合は出典の表記に合わせてください。
1829年、20歳のメンデルスゾーンがマタイ受難曲を復活させた
マタイ受難曲は、マタイによる福音書の第26・27章をテキストにした大規模な声楽作品で、2つの合唱団と2つのオーケストラを用いる編成が特徴です。1727年4月11日にライプツィヒの聖トマス教会で初演されたとされています。
しかしバッハの死後、この作品は長く忘れられていました。流れを変えたのが1829年3月11日、当時20歳のフェリックス・メンデルスゾーンによるベルリン・ジングアカデミーでの復活上演です。大規模なオーケストラと150人の合唱団による、100年ぶりの上演でした。
このときの演奏は、古楽器ではなく当時の近代的な楽器で行われ、必要に応じてカットも施されました。現代の「作曲当時の形で演奏する」考え方からすると改変に見えますが、19世紀の聴衆に届ける形として選ばれた方法です。この上演をきっかけに、バッハの中・大規模作品全般が再評価されていきます(出典:ウィキペディア「マタイ受難曲」)。
「カットした上演は本物ではない」と切り捨てるより、「作品を次の時代へ手渡した上演」として位置づけると、再評価の流れが理解しやすくなります。
バッハが「音楽の父」として広く知られるようになった背景には、死後の忘却と、1829年3月11日のマタイ受難曲復活上演による再評価があります。1727年の初演から約100年を経た上演で、中・大規模作品全般に光が当たりました。生前の評価と死後の評価を分けて考えるのが、バッハの経歴を正確に読むコツです。
実は、鍵盤の練習曲だけは忘れられていなかった
「バッハは死後完全に忘れられ、メンデルスゾーンが掘り起こした」と説明されることがよくあります。でも意外と知られていないのは、忘れられていたのは主に中・大規模作品で、一部の鍵盤楽器の練習曲などは演奏され続けていた、という点です。ウィキペディアのマタイ受難曲の項目でも、当時は一部の鍵盤楽器練習曲などを除いて忘れられていた、と書かれています。
理屈で考えると自然なことです。合唱団とオーケストラを必要とする受難曲やカンタータは、上演に人手と場所がかかり、礼拝の様式が変われば出番がなくなります。一方、鍵盤曲は1人と1台の楽器があれば弾けますし、指の独立や声部の弾き分けを鍛える教材として実用的な価値がありました。
つまり、バッハの名前をつないだのは、演奏会の大作よりも、日々の鍵盤の練習だったとも言えます。現代のピアノ学習者がバッハに取り組むのは、ある意味で18世紀後半から続く流れの延長線上にあるわけです。
「音楽の父」という呼び名は日本で広まった呼び方でもあり、同時代のヘンデルとセットで語られることが多いので、両者の違いも合わせて確認しておくと理解が深まります。

音楽の授業で「音楽の父はバッハ、音楽の母はヘンデル」と習った記憶がある方は多いはずです。ところが大人になってから調べ直すと、いくつも引っかかる点が出てきます。ヘ…
バッハのエピソードをピアノ練習にどう活かす?|読者タイプ別の使い方
写譜を真似するなら「声部ごとに書き出す」
月明かりの写譜のエピソードに刺激を受けて、「自分も楽譜を書き写して覚えよう」と考える人は少なくありません。取り入れるなら、楽譜全体を上から丸写しするより、声部ごとに分けて書き出すやり方をおすすめします。
理由は見出し-2で見たとおり、写譜が暗譜につながるのは「構造を読み取りながら書く」からです。バッハの鍵盤曲の多くは、右手と左手がそれぞれ独立した旋律を持ち、さらに片手の中で2つの声部が動くこともあります。声部を1本ずつ抜き出して書くと、どこで主題が入り、どこで他の声部と重なるかが目に見える形で整理されます。
音名で書き出す場合でも、五線紙に書き写す場合でも、目的は「線の動きを把握すること」です。書き出した後は、その声部だけを歌うか片手で弾いてみて、旋律として自然に聞こえるかを確かめます。ここまでやって初めて、書く作業が演奏の記憶に結びつきます。なお、楽譜は著作権や版の違いにも関わるので、出版社の校訂版など正規に入手したものを使ってください。
1声部を書き出して歌えるようになったら、次の声部に進む、という区切り方にすると作業量の見通しも立ちます。
丸写しで覚えようとして、弾けないまま時間を使う失敗
ピアノ学習者がエピソードを真似して陥りやすいのが、楽譜を最初から最後まで丸写しし、ノートは埋まったのに鍵盤では弾けない、というパターンです。書く作業に時間を使った分、弾く練習の時間が削られ、達成感だけが残ります。
原因は、少年バッハの写譜と現代の練習では前提が違うことを見落としている点にあります。バッハには手元に楽譜がなく、写すことが楽譜を「手に入れる」唯一の方法でした。現代の私たちは印刷された楽譜を持っているので、写すこと自体に入手の意味はありません。写譜の価値は、構造を読み取る作業の部分だけに残っています。
もう一つの原因は、エピソードの「全部暗譜してしまった」という結末に引っ張られることです。暗譜は、指の動き、音の響き、楽譜の見た目、曲の構造といった複数の記憶が重なって成り立ちます。書くことで補えるのは主に見た目と構造の記憶で、指の動きは鍵盤でしか作れません。
原因は「写す=覚える」と考え、構造を読む作業と指を動かす練習を分けていないこと。対策は、書き出しを主題や入りの箇所など要所に絞り、書いたらすぐその部分を鍵盤で弾いて確かめることです。練習時間の中で書く作業が弾く時間を上回っていたら、書く範囲を減らすサインと考えてください。
読者タイプ別、エピソードの使い分け
同じエピソードでも、読む人の目的によって役に立つ部分が変わります。ここでは3つのタイプに分けて使い方を整理します。
大人になってピアノを始めた・再開した人には、リューベック旅行とハンブルクの即興演奏の話が参考になります。「楽譜から学ぶ」だけでなく「演奏を聴いて学ぶ」「学んだ型を使ってみる」という流れは、独学で行き詰まったときの練習の組み立て方そのものです。平均律クラヴィーア曲集などに取り組む前に、声部が重なる音楽だと知っておくと、左手を伴奏と思い込むつまずきを避けられます。
子どもにピアノを習わせている保護者には、月明かりの写譜とコーヒーの話が使いやすいでしょう。前者は「昔は楽譜が貴重だった」ことを伝える入り口に、後者は「作曲家も好きな飲み物があった普通の人」だと感じてもらう入り口になります。ただし伝承の部分は「〜と言われているよ」と添えて話すと、正確さを保てます。
クラシックをこれから聴き始める人には、コーヒー・カンタータとマタイ受難曲の対比がおすすめです。同じ作曲家が喫茶店向けの喜劇と教会の大規模な受難曲を書いていたと知ると、カンタータという形式の幅と、礼拝の音楽と市民の娯楽の違いが一度に見えてきます。
エピソードを発表会の解説や人前で話すときの注意点
発表会のプログラムに曲目解説を書く、レッスン仲間にバッハの話をする、といった場面でエピソードを使うなら、3つの点を確認しておくと安心です。
1つ目は、年と場所を資料どおりに書くこと。リューベック旅行は1705年10月、ハンブルクの即興演奏は1720年、マタイ受難曲の復活上演は1829年3月11日です。年がずれると、職場の流れとの整合が崩れ、話全体が不正確に見えます。
2つ目は、作品番号の表記を出典に合わせることです。コーヒー・カンタータなら「BWV.211」のように、参照した資料の書き方を統一して使います。
3つ目は、演奏家や過去の上演の優劣を持ち込まないことです。メンデルスゾーンの復活上演が近代楽器とカットを用いたことを「間違い」と評価する必要はありません。当時の条件で作品を届けた事実として紹介すれば十分です。
まとめ
まずは手元にあるバッハの鍵盤曲の楽譜を開き、同時に動いている声部がいくつあるかを数えるところから始めてみてください。エピソードで知った「写して構造をつかむ」学び方が、そのまま最初の練習になります。
※エピソードの細部は資料によって記述が異なる場合があります。

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